2011年3月11日、福島県いわき市の塩屋岬の浜辺に大津波が襲った。浜沿いには民宿や民家が立ち並んでいたが、津波はこの家々をすべて飲み込み、この薄磯地区の風景を一変してしまった。この地区にあった豊間中学校では、卒業式が行われていたが、大津波が同校を襲った。被災後、学校の体育館には砂まみれで海水に浸かったグランドピアノが残されていた。ピアノには「寄贈 四家広松」と文字が刻まれていた。
震災から2週間後、「思い出がいっぱい詰まったこのピアノをこのまま放置するわけにはいかない。寄贈した方の思いをずっと残したい。震災で多くのものを失っても、人と人の絆は失いたくない」と、いわき市でピアノ店を営む遠藤洋さん(61)は動いたのだ。かなりのダメージを受けたそのピアノの修復は、不可能だと誰もが思ったのだが、遠藤さんは黙々と修復を始めた。遠藤さんの強い決意が姿勢に現れたのだろうか、徐々に手を差し伸べてくれる人も現れた。地道な修復作業が続き、自衛隊の方や校長先生やPTAの方をはじめ、皆さんと一緒に修復をした結果、半年後にピアノは見事に蘇ったのである。 その後このピアノは「奇跡のピアノ」と呼ばれ、NHKの紅白歌合戦などで披露され大きな話題となったのである。
奇跡のピアノ
この遠藤さんのピアノショップはいわき市平の商店が立ち並ぶ場所にあり、私の住む家の近くにある。震災前になるが、遠藤さんは私の勤務する店に何度も買い物に来ており、そこで私は遠藤さんと知り合った。顔は黒いがとても気さくな方である。
東日本大震災から9年が経つ今年、そんな遠藤さんにピアノ修理の依頼が入った。七月の豪雨で被災した熊本県球磨村の村立渡小のグランドピアノの修復依頼であった。「学校の歴史が詰まった宝をよみがえらせたい」と、阪神大震災と東日本大震災の被災地の住民が協力して乗り出したのである。
活動を始めたのは、六歳の時に阪神大震災で被災した兵庫県尼崎市の和太鼓・しの笛奏者山中裕貴さん(32)。東日本大震災以降、各地の被災地でボランティアを続け、九月に熊本の球磨村に入った。 球磨川の氾濫で十四人が死亡した特別養護老人ホーム「千寿園」に隣接して村立渡小学校はあった。児童や教職員は無事だったものの、校舎の一階部分などが浸水し、体育館のピアノが濁流にのまれた。山中さんは、このピアノの存在を知り「子どもたちのために直す」と心に決めたのだ。
「水に漬かったピアノは修理が難しい」と修理依頼をしたメーカーからの回答であったが、山中さんは納得しなかった。東日本大震災の津波で被災したピアノを直したいわき市のピアノ調律師遠藤さんの存在をインターネットで知り「この人しかいない」と直談判。遠藤さんのもとに届いたピアノの修理依頼がそれだった。 遠藤さんは十月に熊本入りしピアノと対面した。粘土質の土がこびりついて弦がさびつき、とてもひどい状態だったが、修復に取り組むことを決めたのである。
山中さんは高校の同級生七人とピアノ修復のための支援チームを結成。運送費などの自腹負担を覚悟でピアノをいわき市にある遠藤さんの店に送ったのである。 送られてきたピアノを前に、遠藤さんは「もがきながら頑張って最後までやり遂げる」と誓い、来年三月の卒業式での演奏に間に合わせることを目指して修復に励んでいる。
熊本で被災したピアノを直す遠藤さん
この記事を書いた翌日、なんと驚いた事に私の勤務する店に買い物に現れたのだ。お互いに顔を合わせるのは10年ぶりであった。熊本から預かっているピアノの修理のための部品を買いに来たのである。 私は熊本で被災したピアノがいわきに運ばれてきている事はテレビや新聞を見てわかっていた。「熊本のピアノで使うのですね」と尋ねたら「そうなんです、ボルトが折れてしまって」と困った顔をしていた。まったく同じボルトはなかったが、それに近いものを選び「やってみる」と言って帰ったのだ。うまく直るといいのだが。
遠藤さんは根気強い方なので、きっとうまく直ることでしょう。このピアノがまた綺麗な音を響かせ、熊本の山間に鳴り響くことを祈ります。
よみがえれ、奇跡のピアノ!
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