最後の将軍徳川慶喜は、私はこれまであまり好きではありませんでした。戊辰戦争研究会の皆様もそうかもしれません。なんといっても「鳥羽伏見の戦い」で、江戸へ逃げ帰った情けない将軍だった印象が強すぎます。おまけに、江戸に戻ってからも、会津藩主の松平容保公の江戸城登城禁止とし、自分は謹慎し、見事に会津藩を裏切りました。幕末を舞台にした大河ドラマやたくさんのドラマでも徳川慶喜の行動は同様に描かれておりました。しかし、最近、徳川慶喜への評価が見直されております。特に、高校の教科書では、次のような記載に変わりました。
徳川慶喜が江戸城に逃げ帰った後、江戸城で開かれた評定において、家臣の小栗忠順は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張しました。この時、小栗は「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という挟撃策を提案しました。後に、この作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」として恐れたという逸話があるほどです。実際、この時点において旧幕府側は、鳥羽・伏見の戦いに参加していなかった多数の予備兵力を保有しており、友好関係にあったフランス軍からの支援も幕臣たちは提案しましたが、徳川慶喜は拒否し、勝海舟の恭順論を採りました。フランス軍の力を借りて薩長軍と戦えば、江戸の町が火の海となり江戸100万人の命を守るため徳川慶喜は256年間続いた江戸幕府の滅亡を受け入れました。こうした背景を知っていた幕臣だった渋沢栄一は、「徳川慶喜公の名誉を回復しなければいけない」と評して、明治26年からおよそ25年かけて慶喜の汚名返上のために伝記『徳川慶喜公伝』を編纂しました。この中で渋沢は慶喜について「侮辱されても国のために命を持って顧みざる偉大なる精神の持ち主」と、最高の敬意で締めくくられている。徳川慶喜と渋沢栄一が出会わなければ、今の日本は生まれなかったといっても過言ではありません。新しい日本を作った二人の男は、強い友情で結ばれておりました。
【「徳川慶喜公伝」渋沢栄一編纂】
徳川慶喜は、明治時代、側室の子として10男11女もおりました。その後、徳川慶喜の孫と松平容保の孫が結婚しておりますし、勝海舟には養子縁組したり、勝海舟の家を慶喜の息子が継ぎました。また、松平容保の孫娘と慶喜の孫娘が宮家に嫁ぎました。実は、明治維新最大の功労者は、恭順姿勢を貫いた徳川慶喜だったのかもしれません。徳川慶喜のために自分の軸をぶらさず生き続ける、生き切った渋沢栄一に対しては非常に好感が持てました。
徳川慶喜に対する評価です。
伊藤博文 「実は君(渋沢栄一)から慶喜公の人となりを屡々聞かされたが、それほど偉い人とは思っていなかった。しかし昨夜の対談で全く感服してしまった。実に偉い人だ。あれ(大政奉還した理由について)が吾々あらば、自分というものを言い立てて、後からの理屈を色々つける所だが、慶喜公には微塵もそんな気色なく、如何にも素直にいわれたのには実に敬服した」
大隈重信 「公は人に接する温和にして襟度の英爽たる。老いてなお然り、以て壮年の時を想望すべし。その神姿儁厲にして眼光人を射、犯すべからさる容あり。静黙にして喜怒を濫りにせず、事情を述べ、事理を判するに当たりては、言語明晰にして、よく人を服せしむ。これを以て至険至難の際に立って、名望を集めて失わず、幕府の終局を完結して、維新の昌運を開かれたるは、決して偶然にあらず」
渋沢栄一 「公は世間から徳川の家を潰しに入ったとか、命を惜しむとかさまざまに悪評を受けられたのを一切かえりみず、何の言い訳もされなかったばかりか、今日に至ってもこのことについては何もいわれません。これは実にその人格の高いところで、私の敬慕にたえないところです」
【記者 鹿目 哲生】
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