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ザ・戊辰研マガジン

2021年05月号 vol.43

江戸の坂道(目黒の行人坂)

2021年05月06日 09:52 by norippe
2021年05月06日 09:52 by norippe

 JR目黒駅の西口を出て三井住友銀行の左側の道を進むと、そこは「行人坂」と言われる少し狭い坂の道路がある。行人坂は目黒駅から雅叙園に下る坂道で、平均勾配が15.6%の急な坂道である。15.6%といってもピンとこないかもしれないが、滑って転んだら、そのままコロコロと転げ落ちるほど急勾配の坂道と言えば大体イメージが掴めるかと思う。この道は一方通行で三井住友銀行側から車は入れない。


錦絵


行人坂

 この坂の途中に大円寺というお寺がある。出羽三山のひとつ、湯殿山の行者である大海法印が江戸時代初期に開いた道場がその始まりと言われている。それ以来、付近に行者(行人)が多く住むようになったことが行人坂の由来とされている。


大円寺山門


黄金の仏像

 大円寺に入ると正面本堂前に黄金に輝く薬師如来像が立っている。この薬師如来像、自分の体の悪い部分と同じ場所に金箔を貼ってやると、治癒するそうだ。金箔は3枚組500円で寺務所で売っている。夢中に金箔を貼っている女性は我が家族。私も1枚もらって頭に貼ってみた。(笑)
 そして、そこから視線を左に向けると、境内斜面に並んだ石仏群が目に入る。仏像の多さに驚く。現地案内板によるとその数は全部で520尊、491尊の羅漢像が並ぶという。羅漢像の多くは1781年以降に建立されたもので、行人坂の火事で亡くなった人々の慰霊のために建立されたと言われている。


石仏群

 明和九年に大円寺が火元となった「行人坂大火」というのがあった。1657年に発生した明暦の大火、1806年に発生した文化の大火とならび、江戸の三大大火のひとつである。1772年(明和9年)の2月、この日は強い南風が吹いており、火は瞬く間に広がったのだ。白金、麻布、六本木、虎ノ門、桜田門まで北東方面に次々に延焼。その後も京橋から神田一帯、神田川を超え、神田明神、千住、浅草まで燃え広がったのである。
 また、この日は別の箇所でも火災があり、本郷を火元とする火災も発生したのである。こちらも本郷、駒込、谷中、根岸と延焼したのである。この行人坂の大円寺で発生した火は翌日も燃え続けたのである。翌日には北風に変わり、常盤橋あたりの火が、南方面、大伝馬町、馬喰町、浜町方面に広がった。その後、大雨によりようやく鎮火。934町、幅4キロ、長さ20キロの範囲を焼き尽くしたのである。焼死者15,000人、行方不明者4,000人、焼失した大名屋敷は169、橋梁170、寺院382の大被害を生んだのである。

 大円寺失火の原因は放火で、火事場泥棒を働いていた真秀という男が火をつけたとされているのだ。大円寺も失火の責任をおい、行人坂の大火が発生した1772年(明和9年)から70年あまり経った1848年にようやく再興された。行人坂の大火が発生した明和九年は他にも災害が相次ぎ、明和九年のゴロが迷惑年につながることから、安永に改元されたと言われている。

 大円寺境内の阿弥陀堂にはお七地蔵が祀られている。お七地蔵のお七は落語や歌舞伎などの舞台で有名な八百屋お七。八百屋お七の物語は数々の舞台や著作があり、話の細部には複数のパターンがあるが、基本的な話の流れは以下のようになる。
 天和の大火(1682年12月)により、家を焼け出された八百屋の娘お七は、一家で円林寺に避難生活をする。そこで出会った寺小姓に恋をし、お七と寺小姓は恋仲に。延焼した家が再建され、お七一家は避難所である寺を出、2人は離れ離れとなる。お七の寺小姓への思いは募るばかり。自宅が燃えればまた寺小姓と会えると、自宅に放火をしてしまうのである。火はボヤのうちに消し止められるが、江戸時代放火は大罪。お七は鈴ヶ森で火炙りの刑に処されてしまうのだ。

 天和の大火をお七火事と言うが、お七が放火をした火事ではない。放火の原因を作った大火である。大円寺の案内によると、お七の恋人であった、寺小姓の吉三がのちに西運という僧となり、大円寺下、現在の雅叙園のあたりにあった明王院に入ったとある。西運はお七の菩提を弔うため、浅草観音までの往復十里の道のりを鉦を叩き念仏を唱えながらお参りをした。一万日行を達成し、お七が夢枕に現れ、成仏したことを告げられるのだ。そこで西運はお七地蔵尊を造ったのである。

 明王院は明治13年頃廃寺となり、大円寺に吸収された。そのため大円寺にお七地蔵が祀られ、大火に関係の深い寺となっていったのである。目黒雅叙園入り口には「お七の井戸」という井戸を見ることができる。西運が一万日行の際、毎回水汲みに行った井戸とされている。


雅叙園入り口に残されたお七の井戸

 この行人坂を下りきったところに目黒雅叙園はある。


ホテル目黒雅叙園東京


総支配人ではありません(笑)

 ホテル雅叙園東京の前身の目黒雅叙園のルーツは、創業者・細川力蔵が、東京 芝浦にあった自宅を改築した純日本式料亭「芝浦雅叙園」。 創業当時は、日本料理に加えて北京料理メインとし、お客様に本物の味を提供することにとことんこだわった高級料亭だった。 より多くの人々に本格的な料理を気軽に食べていただくため、1931年(昭和6年)庶民や家族連れのお客様が気軽に入れる料亭として目黒の地に誕生したのである。


創業当時の雅叙園

 料理の味はもちろんだが、お客様に目でも楽しんでいただきたいと考え、芸術家たちに描かせた壁画や天井画、彫刻などで館内の装飾を施したのである。豪華絢爛な東洋一の美術の殿堂はこうして誕生し、2017年(平成29年)4月1日目黒雅叙園からホテル雅叙園東京へと施設名称を変更することとなったのである。館内の装飾は目を見張るものがあるが、中でも話題となるのが「百段階段」である。


百段階段

 「百段階段」とは通称で、ホテル雅叙園東京の前身である目黒雅叙園3号館にあたり、1935(昭和10)年に建てられた当館で現存する唯一の木造建築である。 食事を楽しみ、晴れやかな宴が行われた7部屋を、99段の長い階段廊下が繋いでいる。 階段は厚さ約5cmのケヤキ板を使用。 階段で結ばれた各部屋はそれぞれ趣向が異なり、各部屋の天井や欄間には、当時屈指の著名な画家達が創り上げた美の世界が描かれているのだ。
 "昭和の竜宮城"と呼ばれた当時の目黒雅叙園の建物の特徴は、装飾の破格な豪華さにある。 最近の研究によると、その豪華な装飾は桃山風、更には日光東照宮の系列、あるいは歌舞伎などに見られる江戸文化に属するものとも言え、なかでも「百段階段」はその装飾の美しさから見ても、伝統的な美意識の最高到達点を示すものとされているのだ。 2009(平成21)年3月、東京都の有形文化財に指定されたのである。

 雅叙園からの帰りは、あの急勾配の行人坂を登るのかと思うと気が重いが、そこは心配いらない。雅叙園からは目黒駅までの専用バスが出ているのだ。行きは良い良い、帰りも良い良いなのである。
 2017年の6月にこの雅叙園で「坂本龍馬展」が開かれた。龍馬が没してから150年ということで、高知の坂本龍馬記念館がはるばる高知からやって来て開いたものである。当戊辰戦争研究会も集会を兼ねてこの龍馬展を観覧したのである。


坂本龍馬展

 雅叙園を出て左に折れると、そこはもう目黒川である。川沿いは遊歩道となっていて、春には並木の桜が満開になり、花見で大勢の人が賑わう場所である。川沿いの遊歩道を左に行こうか右に行こうか迷うところだが、右に行くと中目黒駅に辿り着く。これが一般的なコースではないだろうか。遊歩道の途中にはちょっと休める飲食店が何カ所かあり、桜を眺めて香り高いコーヒーを飲み、美味しい料理に舌鼓を打つのもいいのではないだろうか。


目黒川


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