栄一、志士になる
渋沢栄一がそろそろ志士になるそうなので、今回から大河ドラマ「青天を衝け」の感想を書いていこうと思います。お時間があるときにでも、お読みいただければ、幸いです。
ドラマの方は、武州血洗島村在住の栄一と従弟たちが織りなす群像劇と、一橋慶喜を中心とした江戸の政局とが、同時進行で描かれています。いずれ、この2つの流れが融合してくることを心待ちにしています。ドラマの進行だと、第10回では文久2年(1862)の出来事が描かれ、栄一と従弟の喜作が上京してくるのは元治元年(1864)なので、栄一と喜作が一橋家に仕官するのももう少しでしょう。
幕臣たちの中に、海防掛の岩瀬忠震が登場してきました。近年の幕末史の研究で、日米通商条約の見直しが行われ、必ずしも、交渉にあたった幕臣たちが、アメリカ側に押されまくったというわけでもないということが、発信されるようになってきました。もう少し、ドラマでもそのあたりを反映して描いてくれたら、よかったのですが。大河ドラマの影響は本当に大きいですからね。
「違勅」の件が出てきました。確かに、孝明帝が開国に反対だったのは事実で、それを覆すべく、老中堀田や岩瀬たちは努力しました。残念ながら、条約への勅許が下りるのはかなり後の話です。とにもかくにも、岩瀬や川路聖謨、井上清直、永井尚志ら、優秀な官僚たちの存在が大河ドラマでクローズアップされてよかったです。
橋本左内役の小池徹平さんも、いい味を出されていました。左内と福沢諭吉は同年生まれで、どちらも大坂・北浜の適塾で学んでいました。現在なら、同年齢ならば同時期に一緒に学んでいるのでしょうが、この二人は違いました。左内は16歳から3年間、諭吉は21歳ごろからとなります。適塾は今なら、東大の医学部より難しいと言われますが、如何に、左内が優秀だったかということです。若い左内が他の塾生たちより劣っていたという話も残っていないですし。
安政の大獄で左内は処刑されてしまいますが、本当にもったいないことです。西郷のように、島流しでも、永蟄居(岩瀬は左遷後、この処分でした)、座敷牢とか、そういうようにはいかなかったのかと、惜しまれます。
桜田門外の変は大河でも、何度か見たことがありますが、坂下門外の変の方は、初めて見ました。大橋訥庵が主催した思誠塾の塾生たちによる安藤老中殺害未遂事件とのこと、栄一の従弟、尾高長七郎がその中に居て・・、というのは史実なのでしょうが、この血洗島で共に成長した栄一と従弟たちの、運命の明暗の分かれ目が、幕末の動乱の中でどういうところにあったのか、ドラマで見せていただけるのは、とっても楽しみです。
いくつか、京都・大阪にあるドラマの登場人物ゆかりの史跡を紹介します。
写真は岩瀬と左内が会談した、京都三条木屋町の瑞泉寺です。
瑞泉寺の居間です。この部屋に条約勅許を求めて上京してきた岩瀬が滞在していたと考えられます。そこへ、一橋慶喜擁立をめざすために左内が訪問してきました。二人は意気投合し、この後、江戸にもどった岩瀬と左内は慶喜擁立に向けて、活動をすることになります。幸いにして、瑞泉寺は戦災に合わず、現存します。内部は非公開ですが、境内には入ることができます。境内の奥には、この場所で処刑された豊臣秀次の一族の墓所があります。
こちらは大阪市中央区淀屋橋駅すぐ近くの適塾です。この建物も現存し、公開されていますので、左内が学んだ場所に入ることができます。大阪は都心部は空襲でほぼ壊滅しましたが、この建物が焼けずに残されたのは奇跡です。
2階の部屋が塾生たちの宿所になります。大部屋の中の大黒柱には、塾生たちによる刀傷が残されていますので、お見逃しなく。案外、知らずに見てこられない方もいますので。
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