実は、会津藩士の中には、イケメンがそろっていました。私が白虎隊記念館を訪問した際に、そのイケメンぶりに思わず驚いた方々の中から、独断と偏見で、イケメンベスト5を選びました。
第一位 横山主税
イケメン№1に輝いたのは、戊辰戦争で散った若き会津藩若年寄の横山主税。整った顔立ちの超正統派イケメンで文句なしのかっこよさ。まっすぐに伸びた背筋とやさしげな眼差しから人柄も実直そうだ。私は、白虎隊記念館に飾られている横山主税の写真を一目見て、端正な顔立ちでかっこいいと思いました。横山主税は、若年寄に任じられ、白河城防衛のため編成されました会津藩部隊の副総督となり、総督西郷頼母を補佐することとなりました。1868年6月20日(5月1日)、奥羽越列藩同盟軍は官軍の攻撃の前に敗勢となり、横山は稲荷山に現れた敵を攻撃しようと山を駆け上がりましたが、被弾のため戦死。従者が遺体を収めようとしましたが、弾丸が集中し、やむなく首級のみを持ち帰ったそうです。行年22。
第二位 松平容保
弘化三年(1846年)叔父の会津藩八代藩主松平容敬の養子となった松平容保は、会津にて家風に基づいた教育を受け、皇室を尊ぶ神道、義理の精神を重んじる儒教、徳川家への絶対随順を唱える会津家家訓を学びました。こうした英才教育を受ける一方、松平容保は美少年でも有名で、会津松平家の屋敷に迎えられる際には、その美貌に会津家の男女騒いだそうです。
第三位 山川大蔵
気が強そうで顔つきはまさに武士の中武士。戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸、会津へと転戦するなど、若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力しました。日光口の戦いでは、土佐藩の谷干城が率いる部隊を相手に巧妙に戦うも敗北、会津西街道の藤原まで撤退。しかし藤原では追撃してくる敵軍を敗走させました。その後、敵軍は中村半次郎が来るまで(日光口からは)会津に突入することは出来ませんでした。会津戦争では、既に包囲された会津若松城に入城できなかったため、会津地方の伝統芸能・彼岸獅子を先頭で舞わせながら入城するという離れ業を演じました。籠城中は防衛総督として勇戦するも、落城して妻・トセも爆死しております。
第四位 山川健次郎
山川兄弟の山川大蔵の弟。東京帝国大学総長になった白虎隊士会津若松城の籠城戦を経験し、会津藩だけでなく敵方の薩摩および長州の藩士の期待を一身に集め、朝敵(新政府軍)から異例の出世を遂げた男の名は山川健次郎です。開城後、猪苗代に謹慎していた健次郎に対し、重臣が相談した結果越後へ脱走の藩命がでた。長州藩士奥平謙輔と会津藩秋月悌次郎との密約により、会津の将来を託する人材として健次郎に白羽の矢が当ったのであります。危険を冒して先導してくれた僧に助けられ、健次郎は新潟で奥平に会った。奥平に随行し一時佐渡や新発田に滞在したが、明治2年5月に東京の長州藩の屋敷に入り奥平の書生になりました。明治4年、北海道開拓使で技術者養成のため、何人かの書生をアメリカに留学させることになり、その一員に選ばれました。留学生を選定するにあたり、旧幕府側に理解を示す開拓使の薩摩の黒田清隆がいたことが幸いしました。北海道は寒いということで、薩長からだけの選抜を退けました。健次郎は長州の奥平謙輔に助けられ、今度は薩摩の黒田清隆に救われました。翌明治4年正月、黒田に引率されて健次郎はアメリカに向りました。ここで難関のエール大学に合格します。健次郎はアメリカとの国力の差は日本人の理学の軽視であると感じ、自らの専攻を物理としました。新政府側の各藩が競って留学生を送り出した結果、勉学しない学生が増加し、国費での留学に批判が出てきました。健次郎にも帰国命令がきましたが、現地人が「帰国後、日本のために頑張るなら」という条件で学資の援助をしました。滞米4年、エール大学で物理学の学位を取得し帰国の途につきました。思えばかっての敵である奥平、黒田そしてアメリカの人達、そして会津の多くの人に支えられての卒業でありました。帰国した健次郎は東京大学の前身であります東京開成学校の教授補として就職しました。明治12年には 日本人として最初の物理学教授となりました。明治19年(1886)、帝国大学令が発布され、東京大学は東京帝国大学になりました。東京帝国大学は文科大学、理科大学、医科大学、工科大学、法科大学の5つの単科大学で構成され、明治26年に40歳で理科大学長になりました。そして明治34年(1901)、健次郎48歳で東京帝国大学総長に選ばれました。朝敵の汚名を着せられた会津藩からの最高学府の総長就任はまさに異例のことであり、旧会津藩の関係者は涙を流したそうです。
第五位 神保修理
神保修理は、天保5年(1834年)、会津藩軍事奉行添役で家老の神保内蔵助の長男に生まれました。諱は長輝。神保家は会津藩内でも名門で知られ、修理は幼い頃から学問に優れ、藩校・日新館でも秀才で知られていました。 嘉永6年(1853)の黒船来航時に修理は20歳、安政7年(1860)の桜田門外の変の時に27歳。幕末の激動を若い頃に体感します。ちなみに桜田門外の変の時に山本覚馬は33歳。覚馬は修理よりも6歳年上でした。山本覚馬は2度の江戸遊学で佐久間象山や勝海舟と接し、真の攘夷を行なうためには国を開き、西洋の文物を取り入れて国力をつけるべきという考え方に至りますが、修理もそれに近い考え方を持っていたようです。覚馬の影響があったのかはわかりませんが、国許にいてそうした考え方を持てたのは、相当柔軟な発想のできる人物だったのでしょう。 文久2年(1862)、修理は京都守護職に就任した藩主・松平容保に従って京都に赴くことになりますが、おそらくその直前に、軍学者の井上丘隅の娘・雪子と結婚。仲介したのは公用人の野村左兵衛で、野村も京都で活躍する人物です。 上洛した修理は、容保の傍らで軍事奉行添役を務め、国事に奔走しました。文久3年(1863)の8月18日の政変では、藩兵を統括して活躍したことでしょう。元治元年(1864)には軍事取調兼大砲頭取の覚馬も上洛していますので、2人の接点は多かったでしょうし、同年7月の禁門の変でも、協力して長州勢を退けたはずです。 注目すべきは慶応2年(1866)9月頃、覚馬は最新武器の調達と眼疾の治療を兼ねて長崎に赴きますが、修理も藩兵組織と教練方法の西洋化のために長崎視察を命ぜられました。目的も近い修理と覚馬は、ともに行動することも多かったのではと想像できます。修理は長崎において、西国の志士たちとも交わりました。その中には長州藩の伊藤俊輔(博文)もおり、国際情勢を踏まえた修理の見識を、高く評価したといいます。また慶応3年(1867)2月には、土佐藩と和解し始めていた亀山社中の坂本龍馬と面会、龍馬は長府藩士の三吉慎蔵宛ての手紙に「会津ニハ思いがけぬ人物ニてありたり」と修理の見識を褒める内容を書いています。 そんな修理が長崎から京に戻るのは、大政奉還が行なわれ、さらに12月9日の王政復古の大号令を受けて、会津藩が大坂城に退去した頃のことでした。修理は会津藩をはじめとする旧幕府側と薩摩が衝突するのを避けるべく、覚馬や広沢安任(公用方)らと奔走します。また修理は、松平容保に非戦恭順の方針を説き、前将軍徳川慶喜にも、江戸に戻って善後策を講じることを進言しました。「今は無益な内戦を行なっている場合ではない」という認識からで、この点は覚馬と一緒です。 しかし、修理は藩内の主戦派から睨まれました。 修理の説得もむなしく、慶喜は主戦派を抑えられずに京都への進軍を許し、鳥羽伏見の戦いが勃発。修理は軍権を握る立場ですので、出陣して戦いました。しかし戦いは旧幕府軍に利なく、しかも新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、会津らは賊軍とされます。 敗れた旧幕府軍は大坂城に集結しますが、肝心の徳川慶喜は将兵を置き去りにして、幕府軍艦ですでに江戸に向かっていました。しかも会津藩主・松平容保を無理やり同行させていたのです。この事態に、敗残の上、置いていかれた会津藩将兵は激昂しますが、藩主を罵るわけにはいきません。 そこで怨嗟の的となったのが、修理でした。 「殿が江戸に向かわれたは、修理が恭順を説いたからだ」 「修理は長州の者とも親しいらしいではないか」 「この戦に負けたのは修理のためぞ。薩長の奴ばらと気脈を通じていたのであろう」 修理はスケープゴートにされたのです。 江戸に戻った修理に、日に日に処罰の声が高まっていることを知った藩主容保は、修理の身の安全を確保しようと、上屋敷に謹慎させますが、その後、他の者によって下屋敷に移され、「藩命」と称して切腹が言い渡されます。修理は容保との路面を望みますが、それも容れられないとわかると、偽りの命令を承知の上で、潔く切腹しました。 切腹の前日、修理は勝海舟に詩を贈っています。「一死もとより甘んず。しかれども向後奸邪を得て忠良志を失わん。すなわち我国の再興は期し難し。君等力を国家に報ゆることに努めよ。真に吾れの願うところなり。生死君に報ず、何ぞ愁うるにたらん。人臣の節義は斃れてのち休む。遺言す、後世吾れを弔う者、請う岳飛の罪あらざらんことを見よ」 岳飛は中国の南宋時代に無実の罪で落命した忠臣でした。 修理、享年35。
【白虎隊記念館の神保修理像】
【神保修理のお墓(東京都港区白金台の興禅寺)】
特に、当時の会津藩にとりましたて将来を担う「神保修理」を失ったのは大きな痛手だったと思います。
【記者 鹿目 哲生】
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