太平洋に面する平潟港は、茨城県の最北端の北茨城市にあり、その昔仙台藩伊達家が江戸に米を運ぶ時の寄港地として開発された港で、この平潟に陣屋を置き常州平潟御穀役人を常駐し、このことが港の繁栄の源となったのである。
平潟港はこれより以前の元和8年に丹羽長重の領となった。棚倉藩に属し、これ以後藩主が何度か入れ替わり、最後は松平氏が領を支配し明治維新を迎えた。
平潟は三方が山に囲まれ、平潟に入る道は馬も牛も通れないような坂道で、隣の村との行き来には大変困難を要した。これを打開したのが洞門であった。いわきの九面(ここづら)と平潟を洞門で結んだのである。この洞門完成で、多くの物産が牛や馬での運搬が容易になり、平潟の多大の発展につながったのである。現在はこの洞門は切通しとして切り崩され、車の往来には十分な道幅の道路となっている。その洞門のあった県境の位置に、洞門開拓の石碑は立っている。
洞門があった場所で現在は切通しになっている
福島県と茨城県の県境に建つ平潟洞門の碑
そしてこの平潟港は、戊辰戦争や太平洋戦争に利用された場所であったのだ。
戊辰戦争で、江戸城の無血開城に不満の幕臣等は、かねてから徳川慶喜に理解が有った輪王寺宮の守護を名目に、江戸は上野山に集結して立て籠もり新政府に反抗したのだが、慶応4年5月15日に新政府軍の攻撃(上野戦争)を受け一日で敗北してしまったのである。この戦は「上野戦争」と云われているが、敗軍の残党は輪王寺宮を伴って旧幕府軍艦「長鯨丸」で江戸を脱出し、途中5月26日「平潟港に寄港」、浦役人の「鈴木主水屋敷」で休息の後、陸路会津に向かったのである。
その後、6月16日、今度は、新政府軍の薩摩、佐土原、大村各藩の兵士約1000名が、続いて柳川や備前の兵も、会津と奥州各藩鎮撫の為に上陸し、「平潟口総督府」を作り、同所を拠点に北方各方面に出兵して行ったのである。
平潟港
28日には海上や陸路で地元や周辺反新政府軍勢力の平潟口総督府軍に対する交戦が始まった。この騒動の中、新政府軍にしてみれば、敵方の盟主輪王寺宮とその部隊も、自分達の上陸の数日前には同地に居た訳で、「居ればその部隊を殲滅出来たのに」と、皮肉な時間差を悔しがったということである。そして兵士たちは、その鬱憤を晴らす為、輪王寺宮の休憩所であった主水屋敷の柱に、刀を打ち付け悔しがったので刀傷が誕生したとの逸話が残っている。
輪王寺宮が休憩した鈴木主水屋敷(現在は更地になっている)
その後、新政府軍は北上し、磐城三藩を攻め落とし、東北での戦いへと突き進んでいったのである。
それから時代は昭和を迎え、今度は太平洋戦争の軍事に利用された港となったのである。
太平洋戦争末期、日本は敗戦色が濃厚になり、飛行機も軍艦も無くなり打つ手がなくなった時、考え出されたのが零戦に爆弾をつけて特攻(自爆攻撃)する神風特攻隊であった。しかし、物資がたりないため戦闘機や爆撃機の機体以外の物が出てきたのだ。木製のロケット特攻機「桜花」や魚雷を改造して人を乗せた「回天」などであるが、そんな中に木製合板(ベニヤ)のモーターボート「震洋」と航空機の部品を利用した潜水艦「海竜」が作られた。
木製合板で出来た旧海軍特攻艇「震洋」
かつていわき市小名浜港に、その震洋と海竜の基地はあった。138震洋隊と141震洋隊の計50隻に12海竜隊の12隻(こちらは終戦間際の配属で稼動しなかった)が所属していたのである。震洋隊の訓練はこの平潟港で行われた。トヨタのトラックの中古エンジンを積み、艇内に爆薬を積み込んだ、通称マルヨンはスピードは遅く、当時の戦闘艦艇には追いつけないため標的はアメリカの輸送艦などを想定していた。なおここには配備されていなかったが、陸軍所属で震洋に似たタイプの特攻艇で通称マルレというものもあった。こちらは日産のトラックの中古エンジンで、船尾部分に自爆用爆雷(ドラム缶型爆薬)を装備していて運用していた隊員からはアマガエルと呼ばれていたそうだ。
しかし、ここにいた震洋隊隊員にとって幸いな事に出撃する事はなかったのである。
旧海軍特攻艇「震洋」が格納されていた洞窟
また、この平潟港から少し南下した大津町に旧軍の風船爆弾の放球台跡地を見ることが出来る。放球台の一部は土に埋まっているが、直径は16メートルもある。また、放球台には気球に水素を充填するための水素ボンベを設置したと思われる跡も残っている。風船爆弾は、陸軍技術研究所の秘密兵器開発「ふ」号作戦による爆弾や焼夷弾を搭載した風船型気球。1944年11月初旬から翌年4月初旬にかけて、偏西風を利用してアメリカ本土に向けて放球された。
放流基地に選ばれたのは茨城県大津町(現北茨城市)、福島県勿来付近(現いわき市勿来)、千葉県一宮町であった。これらが選ばれた理由は、気球や器材の運搬、水素の補給上交通幹線に近い、山に囲まれ風の少ない地形なので、技術側面と秘密保持を念頭にした防諜に適していたからである。放流基地は約132ヘクタールにおよび、基地への住民の立ち入りが禁止されていた。また、同基地付近を走る常磐線はいわき・水戸間で車窓を鎧戸で覆い、情報の漏洩を防いでいた。
風船爆弾の放球台跡地
風船爆弾
精密な電気装置で爆弾と焼夷弾を投下したのち、和紙とコンニャクのりで作った直径10mの気球部は自動的に燃焼する仕掛けであった。第2次大戦中に日本本土から1万kmかなたのアメリカ合衆国へ、超長距離爆弾を実行したのはこれだけであり、世界史的にも珍しい事実として記録されるようになった。約9千個放流し、3百個前後が到達、アメリカ側の被害は僅少であったが、山火事を起こしたほか、送電線を故障させ原子爆弾製造を3日間遅らせた、という出来事もあとでわかったのである。オレゴン州には風船爆弾による6人の死亡者の記念碑が建っている。ワシントンの博物館には不発で落下した風船の1個が今も展示され、深い関心の的になっている。
風船爆弾放流地跡 わすれじ平和の碑
新しい誓い 海のかなた 大空のかなたへ 消えて行った 青い気球よ あれは幻か 今はもう 呪いと殺意の 武器はいらない 青い気球よさようなら さようなら戦争 鈴木俊平作・書
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