バックナンバー(もっと見る)

2024年春季号 vol.5

今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…

ザ・戊辰研マガジン

2019年07月号 vol.21

【先祖たちの戊辰戦争・七】鶴ヶ城址

2019年07月05日 23:01 by tange
2019年07月05日 23:01 by tange

 鶴ヶ城・太鼓門の桝形を抜けると天守閣の直ぐ西下に出る。本丸に通じる鉄門(くろがねもん)の手前に、一つの空井戸が木立の間に残されている。落下防止のための格子蓋から内を覗くと、かなり深い井戸だった。
 天守閣の西側辺りを注意深く探したが他に井戸は見当たらない。これが、会津戊辰戦争の籠城戦時、ただ一回だけあった城外での組織的な戦い――長命寺の戦いで落命した高祖父・鈴木丹下の遺骸を仮埋葬した空井戸に違いない。

 丹下の妻・美和子と娘・光子は、斗南から会津若松へ帰ってから5年ほど経った明治11年(1878)、秋のある日、この井戸付近で丹下の遺骨と着物の小切れを見つける。それは奇跡のような出来事だった。この時、光子は18歳になっていて、夏に結婚したばかりだった。回想記「光子」にその城址でのことが綴られている。

 『大手の太鼓門あたりは、激戦の跡がまだ物凄く残って、朱に染まった蔦かずらにも胸を騒がせます。父の遺骸を葬ったと聞えた空井戸は、天守台の直ぐ西下にある筈ですが、其の辺一帯は人の丈程もある雑草が生い繁って居ります。在る日此所に草を分けて、何ものかを探し求めている親娘の姿がありました。それは、私と私の母であります。
 時は、若松へ帰ってから五年ほど経った頃、御城には誰一人住む者もなく、管理人とても御座いませんから、荒れ放題になって鳥獣の住家となって居ります。唯時折、浮浪人や乞食が、一夜の宿を求めるか物探しに来る位です。或る時乞食共が、古井戸の中を探していますと、古衣や刀剣の折れたのが沢山出て参り、其の上白骨も多数に現れました。其の古井戸は、どうやら父の遺骸を埋めた所らしく、真先に戦死した父の白骨は一番下に埋まっている筈であります。骨となっては誰のものか解りませんが、何か遺品でもあればと、空頼みに、二人して古井戸を見に来たので御座います』

 明治薩長政府は、若松県民の切なる願いを無視し、明治7年(1874)に天守閣、角櫓、城門など全てを破却した。従ってこの時、城内に往時の建造物などは一切無かった。
 光子は回想記に「天守」ではなく「天守台」と記しているが、それは、天守の上部構造が解体撤去され、下部の石組みだけが残されていたからである。


鶴ヶ城・太鼓門の桝形

曾祖母の回想記に続きが記されている。

 『掻きむしられた雑草の中に、土に塗れた白骨やぼろぼろの衣切れが、此処彼処に散らばって居ります。傘の先で、彼れ此れと選り分けていますと、不思議にも私の柄の先に当たった白骨、見る見る内に骨の髄の方から、赤く血が滲んで参ります。私は恐ろしさの余り蝙蝠を投げ出しました。母はこれを見て〝骨肉の縁があれば白骨も赤み、又は自分の鼻から血の出る事があると聞えて居る。父の遺骨かも知れぬ〟と申します。なおよく探しますと、小切れが二、三見当りました。これは確かに、父の肌着の切れに相違ない。御出陣の時御着せ申したものに違いない。
 それならば、この白骨は、父のものかと懐かしく、恐ろしさも忘れて、蝙蝠の柄で尚もあたりの白骨を調べますと、血の滲み出るのがあちこちに御座います。正しく父の御手引きと存じまして、此の白骨を拾い上げ、一纏めに致し、小切れと共に、骨壷に入れて阿弥陀寺に持参し、戦死者の遺骸を葬った場所の南東の隅へ懇ろに埋葬致しました』

 鈴木家の会津若松における菩提寺は、芳賀幸雄編「要略会津藩諸士系譜・上巻」に拠れば、城の東、万松山天寧寺であった。
 さらに、明治3年(1870)、美和子、光子らが郷里を離れ斗南に向かう際、丹下の形見の一つ三徳(紙入れ)の中にあった鏡の片割れを天寧寺に埋葬し、「忠勇院殿天外儀剣居士」の法名を刻んだ石碑を立て永代供養を住職に頼んだ、という記述が回想記にある。
 そうであれば、天守台下で見つけた白骨と小切れを、なぜ天寧寺に持参せず阿弥陀寺に埋葬したのであろうか。
 私は天寧寺を調べたが、丹下の法名を刻んだという石碑の存在も不明であった。
 これは私の想像になるが、明治10年代初め、未だ会津藩の朝敵の汚名が雪がれていない頃、母娘は丹下の遺骨と遺品を天寧寺に持参したが埋葬を断られたのではないだろうか。
 新政府は、会津戦争の終結後、城下の至るところに放置された会津藩士の遺体の埋葬を禁じた。あまりの惨たらしい様子に城の西北の阿弥陀寺と長命寺の住職らが立ちあがり、交渉の末、二箇寺の墓地内に遺体を埋葬し「戦死墓」とだけ刻まれた巨大な墓石を立てた。その三文字も新政府の厳しい命令で決められ、銘などの彫り込みは一切禁じられた。


 阿弥陀寺・戦死墓

 七日町の阿弥陀寺を訪ねると、正面奥に萱野権兵衛長修の遥拝碑、左(東)に鹿児島之役戦没者碑、そして右(西)に戦死墓が立っている一画がある。美和子と光子が丹下の遺骨を埋葬するため訪れた時は、その巨大な墓石だけが立っていた。回想記に記された『戦死者の遺骸を葬った場所』とは、まさに戦死墓のことだった。二人は、阿弥陀寺の許しを得て、その『南東の隅』に丹下の遺骨と遺品を埋葬したのだ。
 戦死墓の南東の背後に、沢山のあまり大きくない墓石が一箇所に集められているのを見つけた。萱野権兵衛長修の遥拝碑と鹿児島之役戦没者碑がそれぞれ戦死墓の南東側に立てられる時、余地の関係で、それまでに在った墓石を集積したものと思われる。そのため、墓石の一つひとつを判読するのは、大変難しい状態になっている。
 しかし、光子の回想記の記述から、そのどこかに鈴木丹下の霊も眠っているのであろう。私は、その場でしばらく黙想し、先祖の霊が安らかであれと祈った。


阿弥陀寺・鈴木丹下の遺骨が埋葬されたと思われる一画

 戦死した丹下が仮埋葬された城内の空井戸の直ぐ近くに、最近植えられたと思われる桜の若木があった。
 その若木は、傍に立つ銘板に拠ると、NHKの大河ドラマ「八重の桜」で主人公の山本八重を演じた綾瀬はるかさんが、福島の大震災からの復興を願い命名し植えた新種の桜「はるか」であった。平成25年(2013)12月4日、植樹祭が執り行われた。
 私は、丹下の空井戸の位置を知らせるための良い目印が出来た、と思った。
 この桜が成木になり花を満開に咲かせる頃、双方の怨念もすっかり消え、丹下の霊が最初に宿ったこの場所も安らぎに覆われているに違いない。


鶴ヶ城・天守閣西側の空井戸

(平成27年7月、鈴木 晋)


(次回は、会津における戦争を何とか避けようとして藩の外交に尽くす鈴木丹下の足跡を、二本松と米沢に探し求めた旅についてです)

関連記事

星亮一先生のことと私の会津についての少しばかりの知識

2024年春季号 vol.5

【史跡を巡る小さな旅・十二】目黒通り

2024年春季号 vol.5

【史跡を巡る小さな旅・十三】行人坂(ぎょうにんざか)

2024年春季号 vol.5

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)

2024年春季号 vol.5

今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…

2023年秋季号 第3号

戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…