列車はJR木古内駅を函館に向けて出発した。往く手右側の遙か彼方に、海が見えていた。
渡島当別駅を過ぎてから左側に山が迫り、海との間もだんだん狭くなってきた。そして、茂辺地駅を過ぎて直ぐの辺りが山と海が最も近づくところで、左手は急峻な崖が間近に迫っていた。そこが矢不来だった。
矢不来では、明治2年(1869)4月29日、箱館戦争最大の激戦があった。
この要害の地は、従来の刀槍の戦いであれば守る方が圧倒的に有利な場所で、箱館へ進攻しようとする新政府軍を迎え撃つには最適の地であった。しかしこの時、制海権を得た新政府海軍による陸上への艦砲射撃が行われたので、榎本軍は撤退、敗走した。
会津遊撃隊長・諏訪常吉も胸に貫通銃創の重傷を負い、同日、箱館病院に担ぎ込まれた。
諏訪常吉は、矢不来に至る前、当別、茂辺地の戦場にそれぞれ手紙を置いてきていた。
『私は、素より戦を好んでいませんので、早々に、この地を引き揚げます。しかし、やむを得ない場合になりましたら、堂々と戦いますので御容赦ください』と書かれていた。
諏訪の手紙は、その後半で会津武士の意地を示しているが、全体として不戦の意志を表明していると理解されるべきである。諏訪は、この一年以上も続いている不毛な内戦を、一日も早く終わらせたかったのであろう。
その置手紙が新政府軍の兵士の手を経て陸軍参謀薩摩藩士・黒田清隆のもとに届き、事態は終戦へと動き出した。
小野権之丞日記、5月12日
『夜半頃、薩州隊長池田次郎兵衛、村橋直衛ほか四、五名が、諏訪の所へ来た。五稜郭と弁天台場に恭順を勧めてほしいと、種々話し合い帰っていった。そこで、高松氏と私は、諏訪の意思を確かめ、他の人々にも相談し、五稜郭と弁天台場に使いを出すしかないと決定した。そのとき夜が明けていた』
同日記、5月13日
『晴、まず弁天台場に、書状を持たせて使いの者を派遣したが、薩藩の永山氏が来て、五稜郭にも直ちに使いを出すように言ってきた。使いには、それぞれ、入院していた手負い人二人ずつを当てた。今日も戦があり、薩藩の村橋氏や永山氏が度々やってくる』
同日記、5月14日
『晴、五稜郭総督(榎本武揚)副総督(松平太郎)より返書が届く。すぐに写しを作り、本書を薩軍の方へ送り届けた』
この五稜郭からの返書には、『一同枕を共にし、潔く天戮に附可申候』とあり、降伏しませんということだった。
さらに追伸として、返書に添えた榎本がオランダで筆写の「萬國海律全書、上下二巻」は、日本に一つしかないものだから兵火による焼失を惜しみ、海軍アドミラルへ贈ってくださいと記されていた。
日記にも書かれていたように、この返書は小野が写しを作成していた。現在、その写しは市立函館博物館に保管されている。
私は、函館公園内にある博物館を訪問し、143年前の先祖の書を間近に見ることができた。それは、戦争下の切迫した時に書かれたとは思えないほど、なめらかで美しい書だった。
榎本武揚の返書の写し(小野権之丞の書)
同日記、5月15日
『曇、今日、弁天台場和議なるという』
同日記、5月16日
『東風雨、今夜半過ぎから暁に至り、諏訪死去する』
同日記、5月18日
『曇、五稜郭、昨日降伏の由』
5月12日、薩摩藩士たちが諏訪を訪ねてきた際、見舞い金として25両を置いていった。それを預かっていた小野は、終戦後、その使い方を思案していた。
稱名寺に戦いに敗れた会津藩士たちが留め置かれていた。生活費として同寺に諏訪の金から20両を支払った。そして、残りの5両と別に工面した5両を合わせて実行寺に納め、京都から共に苦難の道を歩いてきた諏訪常吉の供養をお願いした。
私は、函館山の山麓北側の実行寺を訪ね、故郷会津を遠く離れた北の地にひっそりと立つ諏訪常吉の墓の前で、手を合わせ深く頭を下げた。この旅の目的の一つを果たした。
五稜郭・箱館奉行所(平成22年復元)
少し時間をさかのぼる日記の記述に拠ると、小野は五稜郭へ頻繁に足を運んでいる。病院の運営資金を入手することや情報の収集のためであろう。
ところが月に一度ほど、谷地頭の方へ出掛けている。谷地頭は箱館病院の場所から箱館山の裏の方にあたり、なぜ、そんな所へ行っていたのか不思議な気がした。用向きもはっきりと書かれていない。
私は、谷地頭に向かい、その先の立待岬まで足を延ばした。
目の前に津軽海峡が広がり、遙か先に薄らと津軽半島と下北半島が両手を広げているように見えていた。そうだ!小野も、この風景を見るために、ここへ来ていたのだ。
この地に立って、小野の気持ちが分かるような気がした。彼は会津までつながる東北の大地を見たかったのではないか。
昨年6月に離れた故郷会津は、今どうなっているのだろうか……。
殿様、朋輩、家族は、どのような処遇を受けているのだろうか……。
湾とは違って激しい潮の流れを見せている海峡を眺めながら、望郷と不安に心を揺らしていたに違いない。
立待岬から津軽海峡を望む
立待岬の近くに立つ碧血碑も、侠客・柳川熊吉が一旦実行寺に埋葬した旧幕府軍戦死者たちの遺骨を4年(1871)にこの地へ改葬し、8年(1875)、その上に旧幕臣らによって立てられたのである。
湾ではなく海峡の方へ戦死者たちの遺骨を移し、そこに碑を立てたのは、彼らの望郷の想いに心を寄せてのことであろう。
碧血碑の裏側の小高いところに上ると、木立の間に海狭が見えていた。
碧血碑
2年6月28日、小野権之丞は、阿州の戊辰丸に乗船、箱館を離れ東京に向かった。
東京に移送された小野は、古河藩巣鴨屋敷に暫く留め置かれた。そこを出て千住、草加、春日部、杉戸と進み、8月14日、利根川近くの栗橋に着く。そこで、蟄居謹慎を申し渡される。
しかし小野は、新政府軍に逆らった罪人としての扱いを受けていなかったようだ。その日記に拠れば、旧会津藩や他の人々の見舞いを受けるのも自由だったし、幽閉中の身で驚くことに酒も飲んでいた。52歳の身体を気遣ってのことか、たびたび医師が診察に来ていた。箱館戦争で敵方だった小野について、古河藩は言わば客人扱いだった。
これは、七カ月余りの箱館での戦争において、小野がとった行動に関わっていた。
高松凌雲を院長、小野を事務長として運営されていた野戦病院である箱館病院は、日本で初めて敵味方の区別なく、戦争に負傷し病に倒れた兵士たちの治療と回復に努めた。
さらに小野は、回復した敵方の兵士を帰郷させるために、箱館からの船の便を手配し、その路銀も工面していた。
幕末にパリの病院で学んだ高松の見識と、戦いに倒れた兵士に敵味方は無いとする小野のなかに育まれていた近代思想が、そうさせたのであろう。
箱館病院における博愛の精神は、東京に戻った高松が運営する医療施設と彼が設立した貧民施療を目的とする同愛社に受け継がれていく。
高松を社長として12年(1879)に設立された同愛社は、明治半ば以降、多くの政府顕官や実業家を巻き込んで膨らんでゆき、20年(1887)に創設の日本赤十字社とともに、我が国の博愛施療運動の先駆けとなる。同愛社は太平洋戦争の終戦直前まで存続した。
箱館病院の当時として奇跡とも言える弱者への思いやりの活動は、箱館戦争における唯ひとつの輝きとなった。
小野は、蟄居を許された後、東京の下町、神田佐久間町でひっそりと暮らした。名誉の回復や世上の顕職、それら一片をも求めることは無かった。京都から箱館までの七年に亘る 日々を綴った膨大な「小野権之丞日記」も、終生、公表しなかった。
小野は、明治22年(1889)5月2日、静かにこの世を去った。享年72。苦労ばかりの生涯だったかもしれない。
東京港区南青山の青山霊園に、小野の墓は在る。
あまり大きくない墓石に「小野氏 之墓」と刻まれ、小野氏の真下に権之丞、その左へ美壽、美登と続けて刻まれている。
小野美壽子、美登子は、私の高祖母・鈴木美和子の妹たちである。
美和子の二人の妹は、朝敵とされた会津藩士の娘であったがため、結婚できなかったのであろうか。ここにも、会津藩の悲劇が潜んでいる。
美和子の墓は、港区南青山の曹洞宗大本山永平寺の東京別院・長谷寺に在る。三人姉妹は、それぞれ波瀾の人生を過ごし、没後、同じ南青山に眠っている。
(平成24年8月、鈴木 晋)
(この一年間、【先祖たちの戊辰戦争】と題して稿を重ねてきましたが、本号で最終といたします。これまでにお読みいただきました皆様へ、心からの感謝の気持ちをお伝えします)
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
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