2018年9月、戊辰戦争で新政府軍の拠点が置かれた福島市の長楽寺で、展示会「福島の戊辰戦争―幕末の動乱と福島藩」が開かれました。私は福島市の実家に帰省した際に、長楽寺に行ってみました。
【世良 修蔵】
福島市の長楽寺は、会津藩を攻めるための奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府軍事局が置かれた場所で、開戦の一因となった仙台藩士らによる総督府下参謀・世良修蔵斬首事件に関する資料を保存しております。展示会では、世良が薩摩藩士の 大山格之助に宛てた密書と見られる書簡や、世良が持っていたとされる ミニエー銃など約40点が公開されておりました。
世良修蔵は、東北諸藩を恐怖に陥れた悪魔の男の男です。世良は山口県大島郡椋野で生まれました。世良は早くから萩城下に出て高杉晋作に心酔し、奇兵隊に入隊。奇兵隊では書記官を務めたと記録されております。世良修蔵は奥羽鎮撫総督府の参謀として仙台に赴きますが、本来はこの参謀は品川弥二郎のはずでした。品川は、仙台藩は大藩で交渉に苦戦する事を予測し参謀職を降りて世良に譲ったそうです。品川弥二郎といえば明治政府内で重要なポストである宮中顧問官や内務大臣を務めた人物です。世渡り上手な男だったのかもしれません。世良修蔵が仙台に到着したのは1868年三月。突如、奥羽鎮撫総督一行を乗せた軍艦が仙台湾に現れ東名浜に上陸。総勢600名からなる部隊で、奥羽鎮撫総督「九条道孝」副総督「沢為量」参謀少将「醍醐忠敬」下参謀薩摩藩士大山格之助(のちの大山綱良)下参謀、世良修蔵でありました。当然ながら突然の事に仙台藩は完全に準備と情報不足でありました。そこに木戸や西郷から「仙台藩を会津藩征討に向かわせろ」という命令に従い、仙台藩藩主や重臣たちに対して無礼な態度や言動ばかりを行いました。もちろん略奪婦女暴行なども平然と行い、奥羽鎮撫総督に従わなければもっと仙台で暴れる事を示唆し仙台藩重臣たちを会津藩征討に心が動くように仕向けました。しかしながら仙台藩から見た会津藩は京都守護職として京都で御所の警備を行い孝明帝からの信頼も厚かった会津藩を何故仙台藩が討伐に向かわなければならないのかと藩の意見はまとまり、なかなか会津藩征討に動きませんでした。世良修蔵は仙台で花見の宴を開き、酒の勢いも入れて総督府代表として仙台藩を軟弱だと暴言を吐き続けました。そして、そのことを総督府下参謀の大山格之助宛の手紙に「奥羽皆敵。人数も増員し軍艦を酒田に派遣し日本海側と仙台を挟み撃ちにするしかない。越後口にも人数を増員し警戒する方がいいとする。また会津は恭順謹慎など開城すらする気もなく首級を差し出させる方が良いでしょう」と認めた手紙を出したが仙台藩の手に渡ってしまい、福島の旅籠で仙台藩士、福島藩士らに寝込みを襲われ捕えられました。世良修蔵は中背肥満、容姿は角顔に総髪を一束に結んでいたといわれております。酒好きだったことから福島の旅籠金沢屋ではかなり飲んだようで、傍らに遊女もいたと記録されております。世良修蔵の最期は、福島市内の阿武隈川の船場で一刀で首を刎ねられました。 仙台藩や福島藩には、「世良が好きな人なんて一人もいないんじゃないか」と言われておりました。
【世良修蔵の墓(福島市稲荷神社裏にひっそりとありました)】
私は、会津と長州は未来志向で進むべきとの持論を持っておりますが、長州藩の世良修蔵だけは許せません。当時の福島藩、仙台藩の気持ちは非常に理解できます。
【記者 鹿目 哲生】
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