関東幕末史跡めぐり6
水戸市編その1
水戸城跡 今回の関東幕末史跡紀行のメーンテーマの一つが水戸行きでした。関西方面で慶喜関連の史跡はいろいろあるのですが、関東方面でぜひ、現場に行きたいと願っていました。
駅から城跡へ向かう途中に立つ大木です。江戸時代も目印だったことでしょう。三の丸跡には小学校があります。
こちらは烈公の像です。
水戸城跡ですが、城自体は平安時代末期からあり、水戸徳川家の江戸期の城の建物はほぼ戦災で消失したとのことです。
跡地の見所は藩校です。水戸に来ると、目につくのは慶喜よりも義公(徳川光圀)と烈公(斉昭)です。そもそも、幕末の騒動のおおもとを作ったのは光圀が編纂させた「大日本史」でしょう。鳥羽伏見の戦いで本物かどうか疑わしい錦旗(誰も本物を見たことがない!)に皆がひれ伏したのは江戸時代を通じた武士教育による尊王という教養だという話を読んだことがあります。尊王攘夷を推奨した水戸学です。承久の変で3名の上皇、つまり本物の朝廷が直接出した正真正銘の錦旗に正面切って歯向かって、打ち勝ったのは北条義時率いる鎌倉武士団でした。朝敵になることをいとわず、官軍と戦いました。皇国史観では、許しがたいでしょうけどねぇ。2021年の大河ドラマでは、このあたりのことをたっぷり見せていただきましょう。 弘道館の正門の前面に慶喜の石碑が建てられていました。側面にはその由来が刻まれています。
門に残る弾痕です。幕末期、水戸藩も内部抗争があり、その折の弾痕が残されていました。
玄関部分です。かろうじて、戦災を免れたのがこの弘道館の建物です。もともと水戸藩の藩校で、総合大学のようなものだったそうで、斉昭の七男だった慶喜もここで学びました。いずれ、どこかの大名家に養子に行くわけですから、恥ずかしくないように、スパルタ教育で鍛えられたとか。おかげで、慶喜は大名の子にしては珍しく乗馬ができ、大政奉還後に京都二条城から大坂城に騎乗でやってきたと、アーネスト・サトウは目撃談を記しています。その後、慶喜が二条城に戻ることはありませんでした。2021年の大河ドラマで、このあたりの情景をドラマ化してくれますでしょうか。弘道館内部の詳細は次回に。
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