龍馬直筆の茶わん発見
山口・萩の旧家 坂本龍馬の直筆入り茶わん見つかる―。
山口県萩市の旧家に伝わる 萩焼の茶わんがこのほど、龍馬が萩を訪れた1862(文久2)年に名前や絵を 書き入れたものと分かった。同市の吉田松陰研究家と京都・霊山歴史館の木村幸 比古学芸課長が確認した。一緒に筆を入れたと考えられる松陰門下生らとの交流 も浮かび上がっている。
茶わんを所有するのは同市の斉藤兼太郎さん(71)。斉藤さんの祖父が 維新前後に手に入れ、龍馬が筆を入れた茶わんと伝えられていた。これまで一部 では知られていたが、確かなことは分からないまま。そこで同市の松陰研究家・ 三輪正知さん(35)が調査を申し出た。
茶わんは外側に松林の絵と「龍馬」の名前が記されている。反対側に は明らかに別の筆跡で、茶わん内側から外側に続く山の絵と「豊嶺」「雪鶴」 「玉枝」の文字がある。内側には1羽の鶴が描かれている。
「これまでに見た方は玉枝を女性の名前ととらえていた」と三輪さん。 調べると現在は玉江という地名が、幕藩期は玉枝と書かれたことが分かった。玉 江地区から茶わんの配置通りに考えると、横の山は指月山。少し離れて菊が浜の 松原と、ぴたり当てはまる。この構図を見られる場所は、松陰の菩提(ぼだい) 寺である泉福寺の付近に限定される。 三輪家は萩焼の卸や小売りを行う専門店を営む。茶わんの土や焼き具合を 調べると、長州藩の御用窯だった坂窯の文久年間の作品に同様の物が現存してお り、龍馬が訪れた年代とも一致した。
豊嶺は萩城のあった指月山を指す。龍馬が訪れた時は大雪だった。 雪鶴は城のある山の上を高く飛ぶ鶴が、松陰をイメージしていると考えた。 絵の内容を明らかにした上で、「龍馬」の筆跡を木村課長が鑑定。 資料と比較すると、1867(慶応3)年6月に木戸孝允にあてた書簡のサイン などとほぼ同じだった。木村課長は「龍の字の最後のはね方は完全に龍馬のもの」 と話す。
龍馬が萩を訪れたのは文久2年の一度だけ。前年に土佐勤王党に加盟し、 武市瑞山の書簡を長州藩の久坂玄瑞に渡すための訪問だった。久坂の日記「江月 斎日乗」は、龍馬が1月14日から10日間滞在し、面談したり松陰門下生と会っ たと記述している。
ところがこの間に、久坂は風邪で寝込んだと書いている。「(松陰門下生に) 龍馬を案内してやってくれとなったのでは」と木村課長と三輪さんは推察する。 龍馬と会った松陰門下生の中に画家、松浦松洞がいる。松陰の菩提寺を案内して しのびつつ、龍馬は茶わんに松原を描いて名前を入れ、プロの松洞が山や鶴など を加えて仕上げたと推測した。
龍馬はその2カ月後に土佐藩を脱藩した。松陰門下生と熱く語り合った日々が、 龍馬の決意に影響した可能性もある。
2005年(平成17年)9月28日(水曜日) 毎日新聞
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