田中光顕については、光顕自身が履歴を語った書、「維新風雲回顧録」や司馬遼太郎著 「幕末」の中で土佐の夜雨、浪華城焼打、最後の攘夷志士編などに詳しいが、司馬遼太郎 は言っています。田中光顕は、幕末の風雲をつぶさに体験し、昭和14年97歳まで生き た。長州の高杉晋作の腰巾着のようにして奔走し、高杉が死ぬと、土佐の中岡慎太郎に 従い、維新後は土佐系というよりも長州系の傍役として、数々の要職についた。いわば、 典型的な二流志士であるが、二流の場所である故に、かえって西郷、木戸、大久保、坂本 といった世に知れた志士とは別の視点をもつことができた、歴史の証言者である・・と。
では、田中光顕は、なぜ、ここ十津川郷の田中主馬蔵宅に匿われたのかについては、先に 挙げた文献をお読みいただきたいが、ここでは、我が愛読書「天誅組紀行」の著者吉見良三先生が平成15年、最後に発刊された渾身の一冊、「十津川草莽記」より抜粋して紹介 しておきたいと思います。
田中光顕と名を変えたのは維新後であり、この頃は浜田辰弥や田中顕助と名乗り、元治元 年(1864)8月、那須盛馬らとともに土佐藩を脱藩、幕府の長州征伐を妨害しようと、征 長軍の行営・大坂城の焼き討ちを計画した。 彼らは東横堀松屋町の同志本多大内蔵(おおくら)の家に潜んで同志を糾合、準備を進め たが決行寸前の慶応元年(1865)正月八日、内通者により計画が漏れ、隠れ家は新選組 の襲うところとなる(ぜんざい屋事件)。
幸い、田中も那須も、この日は道頓堀の旅籠「鳥毛屋」で、同志と密議していたため、 あやうく難を免れた。密議の相手は、十津川郷士の植西靱負というから、郷士の何人かも 、この計画に加担していたのであろう。ともかく、二人は新選組の襲撃からは免れたが、 指名手配の身となったため、京、大坂には危険で居れない。そこで二人は植西靱負の勧めで、十津川郷に逃げ込むことにしたという。
折よく、十津川郷士の京都屯所の勤務交代で、郷里に帰る深瀬仲麿らの一行が前夜、鳥毛屋に一泊、早朝、郷里十津川へ向かうことになっていたので、植西はこの二人を一行に まぎれこませて十津川へ送り出したという。 十津川に逃げ込んだ二人は、折立村の「文武館」に落ち着き、田中は経書を、那須は撃剣 を教えた。ところがどこでどうして漏れたのか、十日もしないうちに、幕吏に知れ、捕り 方がやってきた。 それと知った二人は、「京へ行く」と言い残して文武館を去り、間道伝いに上湯川村に 逃げ、郷士の田中主馬蔵を頼った。 田中主馬蔵は京の屯所取締役を務める土地の名望家でこの時は交代で郷里に帰っていた。 続く
読者コメント