『令和の時代』が始まりました。「令和」の出典元となりましたのが、「万葉集」の第5巻に収録している「梅花の歌(梅花歌三十二首并せて序)」から引用されました。
引用した部分の本文と書き下し文、現代語訳は次のとおりです。
<原文の引用部分> 初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香
<書き下し文> 初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す
<現代語訳> 新春の好き月、空気は美しく風は柔らかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉の如き香りを漂わせている
作者は、諸説ありますが一般的には飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した歌人「大伴旅人(おおとものたびと)」といわれています。旅人の家で梅の花を鑑賞する宴で詠まれた歌で、梅の開花による春の訪れや、梅の美しさと香りの良さを表現しているのが特徴的な歌といえます。
「令和」に決定した際の首相談話に、令和に込めた意味が表れています。「春の訪れを告げる梅の花のように、明日への希望と共に、一人ひとりが大きく花を咲かせられる日本でありたいとの願いを込めた」このように、今後の日本という国が、一人ひとりが希望を持てる、より良い国になってほしいという願いが受け取れます。
今年4月~5月は、外出自粛の中、私は近所をサイクリングすることにしました。私の自宅の隣の狛江市に「万葉通り」があり、以前から気になっておりました。サイクリングでいの一番にこの地へ行きました。 新元号が「令和」に決定し、その典拠となった「万葉集」が脚光を浴びていますが、狛江にも「万葉集」の 東歌 ( あずまうた ) を刻んだ歌碑が伝わっています。 そして、この歌碑を建てるのに援助してくれたのが、新たな1万円札の顔に決まった渋沢栄一です。
狛江市の万葉集の歌碑は、『万葉集』巻14の東歌の一首で
「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき」
【現在の多摩川】
松平定信の揮毫になります。文化2年(1805)に猪方村字半縄(現在の猪方四丁目辺り)に建てられましたが、洪水によって流失しました。大正時代に玉川史蹟猶予会が結成されると、松平定信を敬慕する渋沢栄一らと狛江村の有志らが協力して、大正13年(1924)、旧碑の拓本を模刻して新碑が建てられました。
その後、万葉歌碑についてインターネットで調べてみたところ、私が住む調布市内にも万葉集の歌碑があることを知りました。早速、サイクリングで行ってみました。多摩川沿いの公園の片隅にその歌碑がありました。
「赤(あか)駒(こま)を 山野(やまの)に放(はな)し 捕(と)りかにて 多摩の横山 徒(かし)歩ゆか遣らむ」
防人(さきもり)椋(くら)橋部(はしべの)荒(あら)虫(むし)の妻宇遅(うと)部(べの)黒女(くろめ) (巻二十-四四一七) 天平勝宝七年(七七五)二月防人交替のときの、武蔵国豊島群出身の防人の妻の歌であります。防人は九州、壱岐、対馬の辺要を守る兵士で、当時、東国から徴集され、三年交替で、国々の役人に引率され、難波津に集結し大宰府に送られます。当時、防人は馬で行くことを許されていたので、遠い旅路をせめて馬で行かせたいという妻の心であったが、折から放牧時期であったため赤馬を山野に放しているのが捕まらず、多摩の横山の道を歩いて行かせねばならなくなったという妻の嘆きの歌であります。(犬養孝氏の解説引用)
日本最古の万葉集の歌碑が、私の近所に二つもあったことを知ってとても嬉しくなりました。
【記者 鹿目 哲生】
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