十津川郷紀行 「田中光顕歌碑」を訪ねて 、その2
光顕の歌碑のちょうど下に降りたところにその田中家があります。現在は空き家となって いますが、この地で数か月?匿われていたようです。 やがて、ここにも捕史がやってくる。二人は山小屋に逃げ込み、難を免れたものの、 これ以上二人で行動していても目立つだけだからというので、ついに別行動をとること になります。人相書も回って顔を知られている田中はもう少し山中に潜んでいたほうが いい、というので、主馬蔵の案内で、紀州日高郡上山路村の千葉慶次郎宅に逃れ、ここで しばらく匿ってもらうことになる。慶次郎とは主馬蔵の義兄です。 帰りに、十津川歴史資料館により、吉見真理子さんに挨拶したとき、その上山路村にも 立派な碑が建っているとのことをお聞きし、初めて知った次第ですが、次の機会に訪ねてみたいと思いました。
さて、一方の那須盛馬の方は、田中ほど顔を知られていないし、腕に覚えもあるので京へ 戻る決心をし、ちょうどその頃、上京することになっていた野尻村の郷士中井庄五郎に 頼み、十津川郷士になりすまして一緒に京へ出た。慶応元年三月はじめだったという。
京へ出た二人は連れ立ってよく市中を闊歩したが、三月中旬のある夜、四条の高瀬川畔を 酔って歩いていて、三人連れの侍と衝突した。酔余の勢いで斬り合いになったが、運の 悪いことに、相手は新選組の沖田総司、斎藤一、永倉新八という名だたる手練者だった 為、中井も那須も次第に斬り立てられ、那須は左肩と右足に深傷を負って、辛うじてその 場を逃れた。不審をもった新選組は当夜の相手が何者かを調べたため、那須は忽ち身元 が露見、手配中の者とわかり、京に居られなくなった。そこで吉田源五郎(主馬蔵、深瀬 と共に京の屯所の幹部)らの勧めで再び十津川へ舞い戻ることになる。結局、京にいたの はわずか二十日足らずであった。
「十津川記事」によると、この時、道中を心配した吉田ら屯所幹部が、西郷に相談したと ころ、西郷は「郷中の役に立つ人物なら、弊藩はいかようにもしましょう」と言って那須 を片岡源馬と改名させ、薩摩藩士片岡源馬が、十津川文武館へ剣術指南に赴く旨、内外 に広告したという。 十津川に逃れてきた片岡源馬や千葉慶次郎方に隠れていた田中光顕のその後を書きたい が、長くなりますので、またの機会にということで中略させていただきます。 ことほど左様に、十津川郷士たちと討幕派志士たちとの関わりは広く、深い。 特に、上平主税、田中主馬蔵、吉田源五郎、深瀬仲麿、前木鏡之進を中心とした十津川 郷士たちの活動は大変興味深く、面白い。
「十津川記事」や西田正俊著「十津川郷」、 「十津川人物史」などを参考文献に徹底調査して書き上げた、「十津川草莽記」は、 天誅組義挙と十津川郷士募兵および在京の十津川郷士との関係をつぶさに、教示して くれている書であり、今後はこの書を基に十津川郷士を紹介していきたいと思います。
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