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ザ・戊辰研マガジン

2020年09月号 vol.35

辛子明太子のルーツ

2020年08月14日 18:29 by tetsuo-kanome
2020年08月14日 18:29 by tetsuo-kanome

 皆様は、辛子明太子が好きですか?私はコンビニでおにぎりを買うときは明太子のおにぎりにするほど大好きです。時は大正という年号が終わり昭和に入った頃、旧会津藩士の息子の樋口伊都羽(ひぐちいづは)という男性がその当時日本領土だった韓国の釜山に渡りました。目的はその頃海外に行く日本人が同じく志す「一攫千金」のためでした。韓国で目にしたものはあまりにも大量に獲れるためゴミのような扱いをされていた魚でした。その魚を韓国人は「ミョンテ(明太)」といいました。

 ミョンテとは 日本でいう「スケソウダラ(助惣鱈、介宗鱈)」または「スケトウダラ(佐渡鱈、介党鱈)」のことで、九州などでは「メンタイ(明太)」と言われている魚のことです。韓国の家庭ではこの魚を秋になるとキムチ漬けにして保存食にする習慣がもともとあったのですが、卵巣のほうはあまり食べず捨てられていたそうです。樋口は、その捨てられるように放置されたミョンテをほぼタダ同然で買い、卵巣部分をキムチ漬け風にして明太子を販売することを思い立ちます。その製造販売をした店こそ釜山の「樋口商店」なのです。この目論見は大成功、「この明太子はおいしい」と大評判になり大儲けをすることになります。真似をして売り始めたところもあったのですが樋口商店は「うまくて安い」だっため非常に売れたそうです。それがため商売敵から樋口は命を狙われたりもしたそうですが乗り切ったようです さらにこのキムチ漬け風明太子は日本国本土にも運ばれ下関の港に運ばれさらにそこから全国へと発送されたためピークの昭和14年(1939)ころから「辛子明太子=下関」ということになっていきます。 さてそのころ韓国釜山の日本人回漕店の家に川原俊夫という男の子が生まれます。 少し遅れて同じ韓国仁川にあった日本人海運会社に田中千鶴子という女の子が生まれます。 両家の親は同じ仕事仲間で顔見知りで仲も良かったので付き合いがあり、後にこの二人の子供は結婚することになります。二人の大好物はそのころ大ヒットの樋口商店のあのキムチ漬け風明太子だったのは当然のことでした。 終戦後命からがら日本に帰ることができた川原俊夫、千鶴子夫妻は兄が住む九州博多で昭和23年(1948)に「ふくや」という食料品店を開業し、子供のころから大好きだったキムチ風明太を翌年の昭和24年に売り出します。 そこで生まれたのが今では日本最大の辛子明太子製造販売会社になった、老舗「ふくや」の“味の明太子”だそうです。 夫婦は特許もとらず博多の人みんなに作り方を詳しく教えたため、博多の辛子明太子は日本でもっとも有名な食べ物となっていき「辛子明太子元祖=博多」となるのでした。まさか“本当の元祖”である樋口商店のヒット商品がこんなかたちで博多で有名になるとは樋口伊都羽も思わなかったでしょうね。

 旧会津藩士の子が辛子明太子を日本に広めた歴史を知って、またまた会津が好きになりました。

【記者 鹿目 哲生】

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