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ザ・戊辰研マガジン

2020年10月号 vol.36

神保修理の妻「雪子」の死

2020年10月05日 23:42 by norippe
2020年10月05日 23:42 by norippe

 ここのところテレビを見ていて「エッ!」と思うニュースが多い。その中でも名の知れた芸能人の自殺報道には驚かされた。「何でこの人が?」と思うのであるが、皆それぞれ人には知れない悩みを抱えていたのだろう。
 大河ドラマ「八重の桜」で神保修理の妻役を演じた女優の芦名星さんもその一人だ。発見者は芦名さんの親族であった。死亡前日から連絡がとれないので確認に行ったら亡くなっていたと親族は言う。普通であれば、何日も連絡が途絶えたのであれば不審に思うのは当然であるが、たった1日連絡が途絶えただけで現場に駆け付けるのは、親族が彼女に対して何か心配な点があったのではないだろうか。
 警察の現場検証によると、遺書などはなく、アルコールや睡眠導入剤なども検出されていないという。SNSなどによる誹謗中傷もほとんどみられなかったという。彼女を死に追いやったのは何か。

彼女のグラビアは立て続けに週刊誌に掲載され、10月からスタートのドラマ『相棒 season19』の出演も決まっていた。彼女はしっかりした性格で、何事においても取り乱す事はない。週刊誌などでは、昨春交際が報じられた俳優・小泉孝太郎との破局を指摘する向きもあるが、彼女を知る芸能プロ関係者によると「別れたのは昨年。さすがに直後は落ち込んでいたが、時間も経過しているし、吹っ切れていたはずだ」という。
 15日配信の「週刊女性prime」が本人のものと思われるインスタグラムの裏アカウントを紹介。裏アカウントには7月に他界した俳優・三浦春馬さんへ向けたのではないか…と思わせるメッセージが残されていた、という。その裏アカウントには「私の心の中の友へ 一緒に乾杯しよ」と書かれていた。三浦さんの四十九日翌日には「そっちはどう? こっちはなかなか(笑) 会いたい。ふつーに会いたいょ」と書かれている。
 最後の投稿はひとこと「バルス」とだけ書かれていて、これは芦名さんも好きなジブリ映画『天空の城ラピュタ』のクライマックスで唱えられる「滅びの呪文」。この時点で人生を終わらせるという気持ちが固まっていたのかも知れない。
 芦名さんと三浦さんはドラマ「ブラッディ・マンデイ」で共演している。2人とも仕事にストイックで、周囲に苦労を見せないタイプだったという。自殺の仕方にも三浦さんとの共通点はあった。芦名さんの遺体は寝室のクローゼットの中で発見されたが、これは三浦さんと全く同じ。部屋のドアに内側から鍵がかかっていたところも同じだ。
 「遺体は死後1~2日間経過していたが、亡くなった時間も三浦さんが命を絶った“時間帯”に近い可能性がある。2人がどういう関係だったのかは不明だが、三浦さんの死が何らかの影響を与えた可能性も否定できない」と警察関係者はいう。

 スポーツニッポンによると、三浦さんが他界した7月ごろから、芦名さんはごく親しい知人に「死にたい」とこぼすようになっていたという。コロナ禍で仕事が減り将来に不安を抱いた部分もあるという。お酒も以前は節度をもって飲んでいたというが、今年に入ってから急に飲み方が荒くなったという。これも三浦さんに通ずる部分がある。
 芦名星さんは福島県郡山市の出身。享年36歳であった。

 「八重の桜」で演じた神保雪子を、実際の自分の人生に当てはめて死に至った気がする。愛するものを失い、自分を愛する人のもとへといざない、命を惜しまず旅立った神保雪子。芦名星さんは最後まで神保雪子を演じきっていたのかも知れない。
当戊辰研マガジン4号の記事「幕末終焉の地」で神保修理を書かせていただきましたが、最後の一説に神保雪子について書いております。
その一説です。


神保修理と雪子

 神保修理の妻は軍学者である会津藩700石・井上丘隅の次女・雪子である。妻・雪子との夫婦仲は周囲も羨むほど睦まじいものであったとされ、修理も雪子に対して愛情を注ぎ周囲からも羨望の的であった。修理の自刃後、雪子もまた同年8月の会津戦争において壮絶な最期を遂げている。
 会津戦争勃発時、雪子の父親である井上丘隅も戦場に立って戦うのだが、新政府軍の圧倒的な力に会津が負けることを悟った井上丘隅は、一旦自宅に戻った。そこには自刃の準備を済ませた井上一家の姿があったのだ。その中には神保家へ嫁に行ったはずの雪子もいたのだ。父は雪子に「神保家へ嫁に行ったからには、神保家と運命を共にせよ」と叱りつけて、家から出してしまうのだ。その直後に丘隅は家族と共に自刃を遂げるのである。
 雪子は「私も死ぬ身、どうせ死ぬのなら愛する夫・神保修理の位牌を抱いて死にとうございます」と言って、父に言われた通り嫁ぎ先の神保家へ戻ろうとしたのである。だが行く先々が銃弾の飛び交う戦場で、神保家に辿り着けないのである。そして雪子は中野竹子たちが女性だけで編成した「娘子隊」の一員となって城外の戦いに参加したのである。
 しかし途中、雪子は大垣藩兵に捕えられ、捕虜となって大垣藩の陣営である長命寺の一室に閉じ込められてしまったのである。閉じ込められるだけならいいのだが、若い女を我がもの顔でいたぶり、恥ずかし目をあわせる大垣藩兵であったのだ。許し難い怒りがこみ上げてくる。雪子もこんな思いをするなら、早く殺して欲しいと切に願ったであろう。大垣藩は鳥羽・伏見の戦いでは幕府側についていたのだが、会津戦争では新政府側についている。なんとも情けない話であるが、これが戦争というものなのだろうか。
 その後斬首される予定だった雪子を目にとめたのは、たまたま大垣藩の陣営に来ていた土佐藩の吉松速之助だった。もう戦の大勢は決したと見ていた速之助は、縛り上げられた雪子を見て「婦女子を殺しても無益だ。逃げなさい」と、雪子を逃がそうとした。しかし大垣藩兵はこれを許さなかった。
 見張りがいない隙を見て、雪子は吉松速之助の腰にある物を貸していただくよう願い出た。吉松はすべてを悟り短刀を渡したのである。雪子は最愛の夫を亡くし、父も母も、兄弟すべてをこの戦争で失い、そして生きるすべを無くし、自分が死ぬことには何のためらいも無かったのだろう。短刀は勢いよく雪子の喉を突き、うなじから歯先が飛び出すほどの壮絶な自決を遂げたのである。享年26歳であった。


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