今回から、ミナト横浜です。安政5年(1858)の幕臣岩瀬忠震(ただなり)・井上清直がアメリカ公使ハリスとの間で締結された日米修好通商条約のおかげで、横浜村の運命が変わりました。それまでは、ごく普通の農村・漁村であった土地が、深い海岸を持っていたがために、にわかに脚光を浴びることとなりました。本来は、神奈川港が開港するはずだったのが、人通りの多い東海道の神奈川宿がすぐそばにあったことと、横浜港は深かったがゆえに、開港場所は横浜になりました。これからは大型船の時代ですしね。明治以後、大阪港より神戸港の方が盛んになったのも、同様の理由です。進言したのは、勝海舟の弟子で、大坂海軍塾の塾頭だった佐藤与之助政養(まさやす)でした。この方は測量のプロで、その後、神戸海軍操練所の教授方をやり、明治になって、新橋―横浜間の鉄道敷設に尽力されました。
写真は大型船「飛鳥Ⅱ」が横浜港に停泊していたのを撮影したものですが、振り向けば、すぐ近くはビル街で、いかに、海岸が深いということが理解できます。
神戸もそうですが、町のすぐ近くに大型船が停泊できるのは、近代化にもってこいです。鎖国下の旧幕時代には、大型船は造れないので、必要はなかったことです。
写真は復興された「象の鼻」と呼ばれた防波堤です。明治・対象の横浜の古地図には、この象の鼻の形をした防波堤が描かれていました。
港近くの税関所です。幕末期から明治期は運上所と呼ばれていました。明治期、大阪にも運上所があり、初代所長は五代友厚、副所長は陸奥宗光でした。亡くなった三浦春馬さん主演の五代映画「天外者」が完成し、年末には上映されそうなので、大阪の運上所がドラマの舞台になるかもしれません。ぜひとも、男前の五代映画を映画館で拝見したいものです。薩英戦争時の横浜にも五代さんは関わっているので、幕末の横浜もドラマ化されるかも。
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