東京上野にある東叡山寛永寺と徳川家霊廟の特別参拝の機会を得た。その日は、かなり激しい雨が降り、気温も少し低かった。
徳川家霊廟を訪ねる前に寛永寺根本中堂内へ上がり、寺からの話を聞くことになっていた。
少し待たされているあいだ、御堂内を見まわした。須弥壇中央に、秘仏御本尊の薬師如来と日光・月光の両菩薩が安置される大きな厨子があり、灯りがあてられ黄金色に輝いている。秘仏のため扉は閉じられたままだ。その両脇には、四天王、十二神将など沢山の仏像が祀られ、やはり灯りに浮かび上がっている。
天井へ目を移すと、幅広の桧板の目透かし張りである。その天井板は、須弥壇の幅いっぱい6間(10.8m)ほどの一枚もので、仕上げ材料として決して貧弱とは言えないが、豪華絢爛な須弥壇と比べるとかなり見劣りがする。
歴史的建造物である寺院や御殿における部屋の格式を見定めるには、天井の形状を注視するのが良いとされる。竿縁天井や平板天井ではなく木格子で構成された天井は、より高い格式の部屋に用いられる。さらに、格子縁が漆で着色され交差するところに黄金の飾り物が付けられたりすれば、かなり格式が高いと見てよい。こうした部屋の格(ごう)天井には、天井板に花や鳥の絵が色鮮やかに描かれることが多い。
徳川家康は、江戸に幕府を開いた時、将来西方の外様雄藩が京都の天皇を担ぎ江戸に攻めてくることを予見していた。そのような時、徳川家がその外様雄藩と戦って朝敵となることを避けるため、江戸に招いた法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家した宮)を東方の天皇にすることを構想した。家康の構想は、三代将軍・家光が東叡山寛永寺を開基し、四代将軍・家綱がその山主(貫主)として一品守澄(いっぽんしゅちょう)法親王を迎えて実現する。なおこの時、朝廷より山主へ輪王寺宮の称号が下賜され、以来、幕末まで受け継がれた。
東叡山の山主・輪王寺宮は、西の比叡山、北の日光山も併せた三山の山主として、当時、我が国宗教界の最高位にあった。従って、寛永寺の根本中堂は、五代将軍・綱吉が寄進した江戸随一といわれた巨大な建造物で、多数の堂塔と併せて上野山の中央に広大な敷地を占めて建立された。根本中堂の内外は、徳川家の権勢を背景として、さぞかし豪華に造られ、格天井も美しく飾りたてられていたことであろう。
慶応4年(明治元、1868)5月15日の上野戦争で、山内の堂塔伽藍のほとんどが焼失した。明治12年(1879)に寛永寺子院の一つ大慈院の境内へ川越喜多院の本地堂を移築し再建されたのが、現在の根本中堂である。
上野戦争時の寛永寺貫主・輪王寺宮公現法親王は、戦後、東北へ逃れて会津、米沢、白石、仙台を巡り、東北戊辰戦争勃発の直前に奥羽越列藩同盟の盟主とされる。しかし肝心の仙台藩が揺れ動き、藩内で主戦派と恭順派が対峙していた。結局、藩主・伊達慶邦が9月15日に恭順と決断し新政府軍に降伏した。籠城し戦っていた会津藩も、その七日後に全面降伏する。
奥羽越列藩同盟の軍事総裁だった公現法親王は京都に護送され、そこで、翌年9月まで謹慎する。
新政府は、この上野山内の大部分を没収し寛永寺を狭い土地と質素な建物に押し込めることで、徳川家の没落を世にはっきりと示そうとした。
それは、戊辰戦争直後の明治初頭、実高28万石の会津藩を同8千石の斗南へ追いやったのと全く同じ施策だった。
降り続く雨の中、家路についた。気温もさらに低くなっていた。東叡山寛永寺の、または徳川家の凋落を知るには、相応しい天気だったのかもしれない。
(鈴木 晋)
江戸上野・東叡山寛永寺全図(UENO3153ビル屋上)
次号、「江戸から東京へ」
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
読者コメント