誓いの碑
幕末の十津川郷に「太平記」ブ-ムを持ち込んだ長澤俊平という人物がいます。 十津川郷の若者たちに勤王の志を伝えるなど、大きな影響を与えたこの人のことを先ず もって知っておかなければなりません。
「十津川草莽記」によるとこの人の素性はいまひとつはっきりしないのですが、本人の 自己紹介によると丹波亀山藩の藩士だったとか。「太平記」にとりつかれ、そこに登場す る大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよし:後醍醐天皇第三皇子)に心酔、親王がさ すらった吉野・十津川の山々を訪ね、できればそこに定住したいと思い、藩を致仕して やってきたといいます。
長沢は十津川郷の北入り口にあたる、上野地村の小来栖に居を構えると、村の有力者達 と往来する一方、郷民に文武を教えました。常に「太平記」を懐にして、護良親王の十津 川彷徨のくだりを涙ながらに朗読しながら、南朝と十津川郷の由縁を語り、「諸君らの先 祖は、五百年も昔にこうして天皇に尽くした。天皇と十津川郷には切っても切れぬ縁が ある。その天皇がいま未曽有の国難に直面して、いたく宸襟を悩ませていると聞く。諸君 はこれを黙ってみておってよいのか」と強く訴えました。
彼はまた、大変な酒豪で、酔うと必ず痛烈な口調で幕府を罵倒し、将軍は臣下でありなが ら、君主のごとく、豪奢をきわめているのに、京の天皇は万事に不如意を忍ばれている。 本末転倒も甚だしい。断じて許せん!といきまき、あげくには素っ裸になって立ち上がり 「諸君、これが正真正銘、生まれついての俺の姿だ。俺はこの体を天皇に捧げ、幕府 打倒のために闘う。諸君もつづけ!」 と拳を突き上げ吠えたといいます。相当な奇行家だが、十津川郷士たちは、こんな長沢に かえって親しみを覚えたらしく、「長沢先生の睾丸酒」と呼んで敬愛、かれの勧める「太 平記」は郷内第一の愛読書となり、”長沢信者”がぞくぞくと現れていきます。
十津川郷に勤王の志を伝えた長沢俊平の墓。(十津川村上野地)
これら信者は、みな、幕末の風雲に乗じて何かを成したいと、うずうずしていた若い郷士 たちであり、前年(嘉永六年)六月の黒船騒ぎの時も、五條代官所に駆け付け「一郷協力 して、応分のご用を勤めたい」と熱心に売り込み、代官を喜ばせ、江戸からの指示を待っ たこともあったほどで、そんな折だけに、長沢の尊攘論は若い郷士達の心に火をつけた のも自然の流れであったのでしょう。
そんな中、郷士らは、毎日のように長沢の所に集まり、山奥では知りえない情報も教えて 貰っている。黒船騒ぎでは、結局、幕府は米使ペリ-の恫喝に負け、勅許を得ずに開国の 条約を結んだので、孝明天皇がひどくお心を痛めておられること。各地で志士が回天に 立ち上がりつつあること。などなど最新の情勢も長沢から知らされています。
「江戸から沙汰がなかったのも道理。われらが、ご奉公すべきは江戸ではなく、京の天朝 さまだった」 代官所の沙汰を後生大事に守って来た郷士らは、まさに目からうろこが落 ちる思いがしたことでしよう。
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