“母がまだ若い頃 僕の手をひいて
この坂を登る度 いつもため息をついた
ため息つけば それで済む
後だけは見ちゃだめと
笑ってた白い手は とてもやわらかだった
運がいいとか 悪いとか
人は時々 口にするけど
そうゆうことって確かにあると
あなたをみててそう思う
忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な
ささやかな 僕の母の人生“
無縁坂案内板
"無縁坂" 歌はこちらをクリック
シンガーソングライター「さだまさし」が作り、そして歌う「無縁坂」の歌詞1番である。
"母がまだ若い頃僕の手をひいて この坂を登るたびいつもため息をついた"
歌い出だしとなるこの言葉は、さだが当時書いた小説の一節であった。さだは21歳でグレープと言うグループ名でデビュー。1974年に「精霊流し」が大ヒット。 23歳になった彼は、テレピドラマ「ひまわリの詩」の主題歌を依頭された。その物語のテーマは"お母さん"だった。さだは胸の中に大切にしまっておいた、あの坂の詩のことを思い出し、その一節を歌の冒頭にそのまま引用することを決めて創作に入った。
さだは長崎県長崎市生まれ。 長崎は平らな道が少なく、坂道や階段の多い街。 坂の下には長崎湾の風景。さだは幼小の頃からバイオリン教室に通った。バイオリン教室に通う時はいつも母が付き添ってくれた。 その腕を磨くためにさだは中学一年から単身で上京することになり、12歳から一人で暮し始めることになる。さだは寂しさを紛らわすかのように歴史を訪ね東京の街を歩いた。
明治の文豪である森鴫外の小説に「雁」がある。この小説の舞台になったのがこの無縁坂のある界隈であった。さだはこの小説に魅せられこの坂道を何度も歩いたという。
"忍ぶ 不忍 無縁坂"、意味ありげに言葉を紡いだ。長崎で母と歩いた坂道の思い出を胸に、寂しさを紛らわして登るこの東京の坂道。そして坂下には不忍の池。
上野駅の西側には上野公園、その南に「不忍の池」がある。その池に沿って西側に不忍通り。その通りから一本奥に入ったところに坂があり、この坂道が「無縁坂」である。
「不忍池」の名は、かつて上野台地と本郷台地(向ヶ岡)の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたことに由来するとのことであるが、池の周りに笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわづ)が転じて不忍になったという説もある。また、ここで男女が忍んで逢っていたからという説など、名前の由来はいろいろだ。
旧岩崎邸と無縁坂
不忍池の西側にある無縁坂、その無縁坂の登り口から南側に沿って旧岩崎邸がある。そして坂を登り切ると東京大学の鉄門に辿り着く。東京大学の赤門から、鉄門を通って不忍池に向かう途中の坂がこの無縁坂なのだ。
東京大学鉄門
ドラマのロケなどでもしばしば使われる美しい洋館「旧岩崎邸」の北側をこの無縁坂は東西に走る。不忍池方面からは登りになり、文京区と台東区の境目にあたる場所。道の左側には「旧岩崎邸」の赤レンガの壁が続き風情ある光景が見られる。
岩崎邸洋館
三菱創設者・岩崎家本邸として建てられた旧岩崎邸庭園には、洋館、撞球室、和館の3棟が現存。洋館は、近代日本住宅を代表する西洋木造建築であり、館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されている。大名庭園を一部踏襲する広大な庭は、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残している。洋館と撞球室、和館大広間、洋館東脇にある袖塀、煉瓦塀を含めた屋敷全体が国の重要文化財に指定されている。
講安寺
江戸時代の地図にも載っている無縁坂。「無縁仏」をイメージさせるこの坂名であるが、事実、坂の上には行き倒れの無名の死者を葬る「無縁寺(現・講安寺)」があったことが、この呼び名の由来である。講安寺は漆喰造りの大変個性的なお寺で、火事の多かった江戸の町で、建立以来300年たっても現存しているのは、この漆喰造りの防火建築が大きく関わっていると言えるだろう。
”いつかしら僕よりも 母は小さくなった
知らぬまに白い手は とても小さくなった
母はすべてを暦に刻んで
流して来たんだろう
悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに
運がいいとか 悪いとか
人は時々 口にするけど
めぐる暦は季節の中で
漂い乍ら過ぎてゆく
忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な
ささやかな 僕の母の人生“
池之端(不忍通り)
上の写真の右の木の後ろが不忍の池で、手前が不忍通り。
はるか向こうの信号機がある三叉路を左に行くと無縁坂である。
そして、手前のビルの後ろ側、ここは私にとって22歳の頃の懐かしい思い出の場所である。
この辺を池之端という。
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