十津川郷士⑧(御親兵多難-天誅組の変)
大和の歴史 京へ出てきたばかりで、西も東もわからない山家の郷士にとって、一瞬にして頼りの参政 卿や長州藩の失脚は、あまりにも衝撃が強すぎて、適切な判断がつかない状態でした。 同時に、目前にみせつけられた醜い暗闘で、宮廷という世界に消し難い幻滅感を抱かされ たことでしょう。郷士らには大変なショックでした。
長沢俊平から勤王思想というものを植え付けられていた、十津川郷士たちは、宮廷という 存在に崇高、清浄なる別世界の観念を持っていただだけに、天皇は神であり、各宮方も 公家衆もみな聖上の血を引いた身内同士であり、俗世間にあるような醜い暗闘など起こり 得ないと彼らは思っていました。 それが、あっさり裏切られた。それは国の権力という甘美な獲物をめぐっての争いだけに 俗世間の争いよりは、はるかに陰湿で悪どいということを、主税ら十津川郷士たちはこの 政変でいやというほど思い知らされたのでした。 行き場を失った十津川郷士百八十人!
このまま放っておけば、折角の精鋭も攘夷の”天誅”浪士同様の浮浪集団になってしまい かねない。主税ら幹部たちは、その日から手蔓を頼って郷士の身分保持運動に走り回る ことになります。
やはり、頼りは中川宮ということになります。政変の余波で行き場を失った御親兵の問 題は、責任を感じた中川宮が、伝奏野宮定功(ののみやさだいさ)に指示して、郷士ら を参政方支配から伝奏方支配に移すことで解決しました。
八月二十六日、野宮は郷士総代の上平主税と千葉定之介を呼び出し、正式の沙汰がある まで、取り敢えず市中の巡察に当たるよう命じ、次いで九月四日、「両伝奏支配之事」と の沙汰を下しています。 両伝奏とは飛鳥井雅典(あすかいまさのり)と野宮定功の二人のことで、この両人が、 郷士の新しい主君となり、主税ら郷士は半月ぶりに安堵することが出来たのでした。
しかし、一難去ってまた一難! 災難というものは連続して起きるもので、勤番問題がまだ解決をみぬうちに、主税ら郷士 の上には、また新たな災厄がふりかかってきていたのです。国元の十津川郷に、「天誅組」が立て籠もったというのです。
孝明天皇の大和行幸・攘夷親征の詔勅(文久三年八月十三日)の布告に伴いすぐさま動い た、土佐の吉村寅太郎、三河・刈谷の松本奎堂ら激派の浪士が前侍従中山忠光を担いで 決起、御親征の先駆けを勤めようと、八月十七日の夕、大和五条代官所を襲い、代官鈴木 源内らを血祭りにあげた、いわゆる「天誅組の変」はよく知られているところです。
しかし、皮肉なことに、彼らが代官所を屠って凱歌をあげた、丁度その直後に、京では 八・一八政変が突発、廟堂は公武合体派の手に移り、大和行幸も取りやめになりました。
大和行幸の先鋒となるべく「皇軍御先鋒」として、行幸に先立って幕府の天領地を管轄す る大和五条代官を討って大和を平定し、兵を募って御親兵として天皇を迎えようとした浪 士たちは、大義名分を失い、代官所を討ったことで、朝敵として幕府の追討を受けると いう手痛い誤算でした。 次号に続く
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