英一、パリへ・・・夢の中
パリ行きを速攻で承諾した英一です。英一が洋行したかったのは、持ち前の好奇心ゆえでしょう。それは、それは、初めての西洋生活を大いに楽しんだことと思います。新しい知識を仕入れることは、喜びです。
今回は、久しぶりに笑顔あふれる英一の姿を見ることができました。いや、ついこの間まで、攘夷主義者でしたけど。ほんと、英一はラッキーな男です。生まれた土地から離れられない農民だったのが、突然のヨーロッパ訪問ですから、母親が英一のすることは訳が分からんと言うのも、その通りですねぇ。船中で洋食を初めて食べた英一、周りを見ながら、洋食マナーを体験していましたが、筆者も身に覚えがあります。
英一が訪れた頃は、すでにオスマン男爵によるパリ大改造が済み、パリは美しい町に変貌していました。それから、今もそう変わってはいませんが。筆者が初めて訪れた外国の町はロンドンでしたが、植樹が日本とは、当たり前ですが、全く違うと思ったものです。英一がそれまで暮らしていた、木と紙でできたほぼ平屋建ての京都の町並みから、石造りの6階建てのパリの整然とした町並みへ・・・ですから、それは衝撃だったことでしょう。
パリロケを当初は予定していたのでしょうが、コロナ禍の中、パリへは行けずで、撮影陣もご苦労されたことと思います。俳優さんの実写とCGをうまく合成して、パリの雰囲気をうまく出していました。それほど画面に違和感が無かったのは、今だからできる技術です。 パリ万博を見学する英一たちご一行、蒸気機関に驚いていました。
慶応2年5月のことですが、この翌年、慶応3年3月には、五代と由利公正が香港から中古の蒸気機関で動く造幣機械を大坂へ輸入しました。ここが、日本の産業革命の始まりでした。
万博を舞台に幕府と薩摩藩とのつばぜり合いが勃発!そこに日本での利権を得たいイギリスとフランスの代理戦争の思惑が絡み合い、ややこしいことになってきました。しかし、この幕末から明治にかけて、よくぞ、この困難な状況を日本は乗り切ったものです。何とか、他国の植民地にならずに済みました。薩摩藩の介入で、幕府はフランスへの600万ドル(約6億円、今ならいくらぐらいでしょうか)の借款に失敗し、結果的に幕府は滅亡しますが、新政府は借金無しの0からの出発になりました。マイナスからの出発とは大違いです。
将軍慶喜は大坂城内に外国公使を招いて、フランス料理をふるまっていました。この時のレシピが残され、出版されています。先日、友人がレシピを参考に、この折の料理を作ってくれました。バタートーストにシャンピニオン(きのこ)のソテーのせ、チキンソテーのパイ包み、ドライフルーツのプティングなどなど、とっても美味でしたよ。
フランスへ行きたしと思えども、フランスはあまりに遠し・・・の状態なので、パリの町の風景をご紹介しましょう。2010年代のパリです。
モンパルナス付近の町並みです。オスマンが大改造をするまでは、通りが狭く、バリケードが設置しやすかったので、それを避けるために建物を壊して、道を広げたのだとか。
こちらはセーヌ河畔の町並みです。
炎上する前のノートルダム寺院です。パリ2024オリンピックの前には、フランスが威信にかけて、修復公開することでしょう。ステンドグラスがとっても美しい教会です。おすすめは早朝です。人が少ない!
パリ万博の跡地、シャンドマルス広場です。写真にはエッフェル塔が写っていますが、この塔は第4回パリ万博で造られた物で、英一たちが訪れた第2回にはまだありません。エッフェル塔の真下までは行ったことがありますが、まだ、登ったことはありません。いつも大勢の人が並んでいます。
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