〈幕臣・永井尚志〉 幕末、幕府の重鎮として京洛にて活動。新選組のよき理解者であり、松平容保守護職の手助けとなって活躍もした。 -◇-〈説明板〉 江戸時代後期の幕府官僚、明治政府の官吏。「なおむね」とも読まれてきた。
文化十三年(1816)十一月三日三河奥殿藩主松平(大給おぎゅう)乗尹(のりただ)の子として生まれた。二十五歳で旗本永井能登守尚徳の養子となり嘉永六年(1853)海防掛目付に抜擢された。安静二年(1855)我が国最初の海軍士官養成機関となった長海軍伝習所を統監した。
その後、初の外国奉行になり新設の軍艦奉行となったが、安政の大獄で処罰された。文久二年(1862)軍艦操練所御用掛として復職し、京都町奉行を経て慶応三年(1868)若年寄格として将軍徳川慶喜を補佐し大政奉還の上表文を起草した。明治元年(1868)鳥羽伏見の戦に敗れ、函館に逃れたが、明治五年許されて明治政府の開拓御用掛に任ぜられ、左院小議官、元老院権大書記官を歴任した。岩瀬忠震(ただなり)大久保忠寛(一翁)らとともに阿部正弘に登用された幕府官僚の一人である。
境内の枝垂れ桜
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