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ザ・戊辰研マガジン

2021年11月号 vol.49

亀ヶ城址公園とラ・ネージュ(会津・猪苗代町)

2021年11月03日 13:29 by tetsuo-kanome
2021年11月03日 13:29 by tetsuo-kanome

【亀ヶ城址公園(会津・猪苗代町)】

 亀ヶ城は、会津の磐梯山の南、猪苗代町中心部の小高い丘に築かれた城で、源頼朝の東北遠征で功績のあった佐原義連の孫、経連が鎌倉時代初期に築いたといわれています。長らく、猪苗代氏が居城としてきたことから、猪苗代城と呼ばれています。 江戸時代に入り一国一城令が発せられた後も、会津藩の重要拠点として例外的に存続が認められ、城代が置かれていました。「鶴ヶ城」に対する「亀ヶ城」とその名を変え、会津藩主松平家の墓地である土津神社を守る城でもありました。会津藩東の要として、八重や会津の人々は頼りに思っていたことでしょう。 亀ヶ城 藩士が必死で守った城跡。一歩一歩、想いが募ります。

 しかし、慶応4(1868)年、戊辰戦争の際に、母成峠の戦いで新政府軍が旧幕府軍を破って会津領に侵攻。抵抗むなしく、時の城代と会津藩士たちは、城を焼き払って若松へ撤退せざるをえませんでした。母成峠敗戦後、新選組の土方歳三と斎藤一らがこの城で会津藩と軍議を行ったと云われています。新政府軍の侵攻に備えるために、湖南にいた会津藩砲兵隊に援軍要請の手紙を出しますが、援軍を得られず、城代の高橋権太夫は少人数では戦えないと、猪苗代城と土津神社に火を放ち若松城に撤退。この戦で建物は全て消失し、ここに猪苗代城の役割は終わりを告げます。城は焼失してしまいましたが、石垣や土塁、虎口などが残っており、当時の姿を垣間見ることができます。 明治時代に町内の有志により桜が植樹され、その後、公園として整備されました。現在も春には大勢の花見客が訪れ、人々の目を楽しませています。土方歳三は猪苗代から仙台へ向かい、榎本武揚率いる旧幕府軍と合流。斎藤一は鶴ヶ城へ向かい籠城戦に加わり、二人は猪苗代で袂を分かつことになりました。

【土方歳三】

【斎藤一】

 猪苗代町といえば、会津中でとても有名な飲食店があります。「くいものや ラ・ネージュ」です。「ラ・ネージュ」とは、フランス語で「雪」の意味です。「ラ・ネージュ」の手打ち蕎麦は、そば粉100%で雪のように真っ白なことから、店名を「ラ・ネージュ」としたそうです。会津一と言っても過言ではない美味しい手打ち蕎麦を食べることができます。10/24に私は会津若松市へお墓参りにいく途中に数年ぶりに立ち寄りました。丁度、新蕎麦の時期で、期待が高まりました。11時30分開店前に大行列で、私は4組目に並ぶことができました。入店後、私は、もちろん迷うことなく「ざるそばとミニヒレソースカツ丼セット」を注文しました。新蕎麦は、キリっとしまったコシのある蕎麦で喉ごしも最高。会津のソースかつ丼は有名ですが、「ラ・ネージュ」のヒレソースカツ丼は断トツ一位の美味しさです。新蕎麦、そばつゆ、ヒレソースカツ丼の美味しさにまさにノックダウン。大満足でした。大行列でも大いにその価値はあります。

【くいものや 「ラ・ネージュ」】

【ざるそばとヒレソースカツ丼セット】

 会津若松市民の何人かに聞いても、「猪苗代のラ・ネージュ」の手打ち蕎麦が『会津一美味しい』とおっしゃっておりました。ただし、いつ行っても大行列とも聞いておりました。いやぁ、今回久しぶりに手打ちの新蕎麦は大変おいしゅうございました。もちろん、ヒレソースカツ丼も秀逸の一言です。皆様にもぜひ食べて頂きたいものです。

【記者 鹿目 哲生】

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