赤坂は江戸時代からの大名屋敷町で、多くの坂が点在する場所である。溜池山王から乃木坂トンネルへ続く赤坂通りの左右に高台が形成されていて複雑な地形になっている。
そんな赤坂に、2008年(平成20年)3月20日に再開発複合施設「赤坂サカス」がグランドオープンした。
東京赤坂の地に咲く、新しい文化の街。
おくゆかしく色つく桜と共に、人々の笑顔を咲かす、夢を咲かす。
「赤坂サカス」は赤坂に生まれる新しい街。
新たな文化発信地と歴史ある伝統文化が息づく街、赤坂が融合して、新しい”赤坂文化の花”を咲かせます。
都心にあって和を感じさせる街のイメージを込めた、赤坂「さかすJ という日本語の名前。
三分坂、薬研坂、丹後坂、氷川坂・・
赤坂にたくさんある坂=「坂s」=「サカス」。
「akasaka Sacas」を右から読むと「SACA・SAKA・SAKA」、三つ連なる坂。
美しく春を告げる、エリア内のおよそ100本の桜を「咲かす」。
感性を刺激するイベント、演劇、音楽の数々、心を豊かにする食・・。
魅力あふれる複合エンタテインメント空間。
それが、「赤坂サカス」。
Akasaka sakasと名付けられたTBS社屋一帯は、江戸時代の松平安芸守屋敷跡。安芸広島藩浅野家である。
二代光晟の母が家康三女振姫だったため松平姓を許されていた。忠臣蔵の播磨国赤穂藩浅野長矩は分家になっている。TBSに正門から入るとオールスター感謝祭のマラソンコースになっている心臓破りの坂道が出てくる。社屋でいうと1階から4階まで上がるくらいの高低さになる。
坂上のT字路の信号を左に折れると道がクランクした赤坂通りにつながる三分坂。かなりな急勾配な坂である。
江戸時代、あまりの急坂のため、ここを通る車賃が銀三分(さんぷん)増したため、この坂の名前が付けられたとされている。
この三分坂は、港区赤坂五丁目と七丁目の境界を北東に上り、更に西北に直角に折れ曲がって、TBS放送センター前まで上る傾斜の急な坂道なのだ。標識は港区が設置したものが坂上と坂下にそれぞれ一本ずつ立っている。
三分坂
そして坂道の麓には「報土寺」がある。
報土寺は、慶長十九年(1618)に、赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され、幕府の用地取り上げにより安永九年(1780)に三分坂下の現在地に移転した。この築地塀はこのころに造られたものといわれている。築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀。報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知られる「三分坂」に沿っ造られており、塀が弓なりになっている珍しいものである。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえるのである。
報土寺
また、この寺にはあの有名な江戸時代の力士である雷電為右衛門の墓があるのだ。
雷電は寛政二年(1790)から引退までの22年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、33場所、250勝10敗の大業績を残した。雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが、引退後も相撲頭に任ぜられている。文化十一年(1814) この報土寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取り壊されてしまった。そして雷電は文政八年(1825)江戸で没した。
この三分坂から戻って、TBS坂上の信号を右に行くと、また右手に急坂がでて来る。円通寺坂である。こちらは一ツ木通りに通じる坂である。円通寺坂の途中に陸軍省所轄と書かれた石柱が埋まっている。戦前TBSのある一帯は近衛師団歩兵第三連隊の駐屯地だった。近衛師団とは最新鋭のエリート集団で、天皇および宮城の警衛のために組織された集団。また東京ミッドタウンには陸軍第一歩兵連隊、国立新美術館には陸軍歩兵第三連隊が置かれていた。大名屋敷から軍隊の街に変わったのがわかる。
陸軍省所轄と書かれた石柱
円通寺通りから一本入ると丹後坂という坂があるが、現在は階段に姿を変えている。そのまま直進すると牛鳴坂。坂を下ると青山通りに出る。
丹後坂
左手に山脇学園が出てくるが、その角に立派な武家屋敷門が突如現れる。
この門は、江戸時代末期の幕府老中で、岡崎藩主・本多忠民の江戸上屋敷の表門であった。火事で焼失してしまった門を、1862年に再建したもので、屋敷は現在の丸の内・東京中央郵便局付近にあり、元々の門は幅が120mにも及ぶ長大なものだった。明治時代以降、この門は何度も所有者を変え、その度に、霞ヶ関、白金と場所を移した。そして戦後、山脇学園の理事長が門の寄贈を受け、昭和49年(1974年)、千葉県九十九里町の学園臨海施設に移設。そして最後に、平成28年(2016年)、赤坂にある山脇学園の敷地に移設したのである。この門は、五万石以上の大名が許された江戸屋敷長屋門の中で、唯一残るとても貴重な存在。昭和22年に国宝に指定され、その後制度改定に伴い、国の重要文化財となった。
武家屋敷門
そのまま直進すると右手に弾正坂という坂が出てくる。
青山通りをこえて赤坂御用地と豊川稲荷の間を抜けていく坂道である。江戸時代の古地図には坂の左側に松平左兵衛督屋敷がある。鷹司松平家(上野国吉井藩松平家)屋敷で坂の名前の由来は第7代松平信敬が弾正大弼になっていたことによるものと思われる。鷹司松平家は五摂家のひとつである鷹司家の庶子鷹司信平が実姉の徳川家光正室孝子を頼って公家から武家(旗本)に転身したことにはじまる。4代家綱の配慮で紀州徳川家の娘を娶り松平姓を許されていた。2代のち信清が初代吉井藩主となり大名家となっている。
左手に見えてくる赤坂ガーデンシティとパークコート赤坂ザタワーの敷地を抜けると赤坂の谷地が一望できる。目の前の谷地は黒鍬谷と呼ばれていた。黒鍬とは江戸時代の五役(黒鍬之者、御駕籠之者、御掃除之者、御中間、御小人)といわれる職制のひとつで、江戸城内の土木作業や草履取り等の雑事に従事していた集団のことである。
パークコート赤坂ザ・タワー
赤坂ザ・タワーの敷地を抜けると薬研坂に出る。薬研とは漢方薬などをひく道具。V字型に両側から下るこの2つの坂を合わせて薬研坂と呼んでいるのだ。
薬研坂
青山通りに出て左手に進むとすぐに高橋是清記念公園がある。江戸時代は青山備前守屋敷跡だったところである。第20代内閣総理大臣高橋是清の邸宅がここにあり、226事件ではこの邸宅にいるところを青年将校たちに襲撃されている。赤坂の近衛師団歩兵第3連隊が襲撃に加わっていた。
高橋是清記念公園
公園の隣にあるカナダ大使館脇を左手に入ると新坂がある。江戸古地図では「志んサカ」と書かれている。
新坂
しばらく行くと左手に稲荷坂がある。坂の登り口の左手に円通寺稲荷があったことに由来する名前である。ここを登ると先程の薬研坂の円通寺坂よりに出て、そこから降ると黒鍬谷、ちなみにその下り坂の名前も稲荷坂でこちらの脇にも別の稲荷社がある。最初の稲荷坂の両側は御掃除之者の組屋敷があったようだ。江戸城内の御殿の清掃に従事していた集団である。
黒鍬谷
赤坂通りからの三分坂、一ツ木通りからの円通寺坂、そして青山通りからの薬研坂。この3つの坂が形成した谷山が歴史を辿ると安芸浅野家屋敷であり、近衛師団第3連隊駐屯地であったのである。坂坂坂、赤坂は坂の多い場所なのである。
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
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