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ザ・戊辰研マガジン

2019年03月号 vol.17

母成峠の戦い

2019年02月11日 19:10 by tetsuo-kanome
2019年02月11日 19:10 by tetsuo-kanome

 戊辰戦争といえば、「母成峠の戦い」が真っ先に浮かんだ私は、これまでの福島県勤務の際に、現地を訪問した際の写真の数々をご報告します。

 戊辰戦争において、東軍は白河口の戦いで敗れ、二本松城が陥落し西軍の勢いが増す中、この「母成峠の戦い」の敗退が敗北への道につながっていきました。

 母成峠は、郡山市から猪苗代町へ続く元有料道路の母成グリーンラインの境界に位置し、この母成峠に付近に到着すると、通り沿いには何の表示もなく通り過ぎてしまい、引き返してやっとたどり着きました。少し寂しく思いました。

 「戊辰戦争母成峠古戦場」の石碑。


 「母成峠古戦場」の石碑の側面には、
東軍は、大鳥圭介、田中源之進、丹羽丹波、土方歳三以下八百名。
西軍は、板垣退助、伊地知正治、谷千城以下三千名。

 東軍は、母成峠を守備していた会津藩兵と旧幕臣の大鳥圭介の伝習隊と土方歳三の新選組の八百名。最新式装備の西軍の猛攻に、残念ながら東軍の母成峠守備兵はたった一日で崩壊し、西軍は猪苗代城まで進撃。大鳥圭介は西軍主力が母成峠に向かったことを的確に把握していたが、いかんせん手持ちの兵力が少なすぎたことと、歴然とした武器の違いが致命的であった。

 さらに、西軍は「十六橋」をあっさり突破し、戸ノ口原を超えてついに滝沢本陣まで迫ったのである。




【大鳥圭介の写真】

 

【板垣退助(前列中央)・谷千城(板垣の左後)】

 
 母成峠の戦いは、慶応四年(1868年)八月二十一日、
圧倒的な兵力を集中して一挙に会津国境を突破しようとする西軍と阻止しようとする東軍との間で戦われた戊辰戦争の中で最も注目される戦いであったと石碑に記載されておりました。

 

 

  その後、目立たないところに「案内板」を見つけ、下り道を歩を進めると「戊辰戦没東軍殉難者慰霊碑」を見つけました。

 

 

この慰霊碑の近くには、会津藩家老だった西郷頼母が会津藩殉難者への鎮魂の和歌の石碑がありました。

 “なき魂も恨みが晴れてけふよりはともに長閑く天かけるらん”

 

 

 母成峠の石碑や戊辰戦争殉難者の石碑近辺には、訪れる観光客は全くおらず、一つ一つをゆっくりと見ることもでき、いろいろな思いにふけることはできました。特に、西郷頼母の和歌は、深い哀しみを感じます。一方、悲しい戦場であったことを思うと、改めて会津藩の口惜しさを思い知ることにもなりました。

 

 昨年、戊辰戦争150年で、母成峠を再訪した際に、冊子が置かれており、頂いてまいりました。戊辰戦争の遺構(レガシー)として、協議会ができていたことは嬉しくなりました。

 

 

 そして、母成峠の戦いで敗れた会津藩兵が撤退した道が、猪苗代町の「達澤不動滝」の近くに「戊辰の道」として記されておりました。戦に敗れた会津藩兵が命からがらこの道を通って鶴ヶ城へ向かったと思うと感慨深かったです。

 

 そして、この「戊辰の道」のすぐに近くに、
凛として流れる圧巻の『達澤不動滝』

 

【最後に、現在の十六橋】


(記者 鹿目哲生)

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