桜が満開の東京から本州最北の市、むつ市の田名部を訪れた。戊辰戦争に敗れた会津藩は、明治2年、斗南藩三万石として再興を許され、その地に藩庁を置いた。夕方、大湊線下北駅に着くと、早速吹雪に迎えられた。三月の雪は降り続けること無く短時間でやむとのことであったが、この時季の東京と比べ寒さは大変厳しかった。
明治3年の5月ごろから藩士と家族の斗南移住が始まり、私の曾祖母・鈴木光子も、母、妹、祖母、伯母と女性ばかり五人で、同年8月末に会津若松を立ち、新潟、野辺地を経て斗南に着いた。色々な事情で宿屋に長逗留していたが、11月初旬に田名部であばら家を借り生活を始めている。居住した場所を特定できないかと考えての旅であった。
回想記「光子」に、その住まいの位置を示すヒントとなる記述が、いくつか見つかっていた。『田名部に着いて二十日余り逗留していた宿屋菱千の近くのあばら家を借りた』
住まいとなったあばら家の位置を特定することは極めて困難なので、鍵となる〝菱千〟の位置を探し当てることが目標となった。
『藩庁から頂く玄米が少なかったので、それに昆布を細かく切って混ぜ、粥として膨らませて食べるのである。そのため、毎朝早く人の起き出る前に、海岸に行って昆布を採った』
この記述から、住まいが比較的海の近くにあったことが分かるのである。
斗南藩の指導部は、開拓のための集落(総住戸数200戸)を建設し、そこを斗南ヶ丘と名付けた。「むつ市史」に、その集落全体と個々の住宅の様子を示す平面図が載っている。それを見ると個々の住宅の質も高く、配置計画やインフラ計画などもかなり優れていたことが分かる。全体の開発区域の面積を知ろうとした。一住戸の大きさが図面で明示されているので、それを基準スケールとして全体配置図から計算した結果、この斗南ヶ丘は畑地も含めて概ね240m×320mの広さであった。76,800㎡(23,200坪)である。現在で考えても、かなり大規模な開発計画である。それを、明治3年10月までのきわめて短い期間で、完成させている。
今、斗南ヶ丘史跡として残されているのは、そのほんの一部にすぎない。
しかし、後に陸軍大将となる柴五郎や鈴木光子の一家は、斗南ヶ丘に住むことを許されていない。両家族とも、この時ある事件で拘留されていた柴太一郎、会津戦争で戦死した鈴木丹下というふうに、戸主を欠いていた。多分、それがそこに住めなかった理由であろう。
そもそも斗南ヶ丘の総数200戸は、17,000人とも言われた移住者のごく限られた人々の住居だった。
柴五郎の住まいについては、石光真人氏の「ある明治人の記録」にも詳述されているように、本当に惨めなものであった。その位置も藩庁となった円通寺から遠く離れ、斗南ヶ丘の反対側の旧大湊町にやや近く、釜臥山の裾のところにあった。
光子らが借りて住んでいた家もひどかった。回想記にその様子が綴られている。
『家とは名のみで、八畳位の一間に揚げ戸があるばかり、その一間には畳がなく、障子も襖もない。壁も落ち、屋根も雨が降れば漏れるにまかせていた。月漏るあばら家では、寒風も吹雪も吹き込むのである』
実に悲惨な状態だった。この家に移り住んで九日目、光子の祖母が亡くなる。老齢と田名部までの過酷な長旅のせいであったが、厳しい冬が始まっていた中、この住環境も少なからず関係していたと考えるべきであろう。
斗南藩庁となった円通寺・本堂
明治4年7月の廃藩置県によって斗南藩は県となり、さらに弘前県と合併し、9月に青森県が誕生する。藩主・松平容大(かたはる)も、新政府の方針に従い東京へ往ってしまう。一方、刀を鍬に替えて挑んだ農業であったが、恐山山地の噴火による火山灰堆積土壌に短い日照と冷温という悪条件が重なり、ことごとく失敗する。こうして移住してきた人々の多くは、この廃藩置県を契機として、会津若松へ帰るか、北海道余市など他の地に移っていくのである。彼らの斗南での生活は、おおかた一年余りであった。
光子の母・美和子と伯母は、最初から農業では先の見込みがないことを知っていたようだ。会津武家の子女が家庭内で厳しく躾けられていた着物の仕立てなどの針仕事で、現金収入を得ようとするのである。これからは、恩義と恩情といった武士の世界で通用していたものより、貨幣の持つ力の方がずっと大きくなることを感じていたのであろう。貨幣経済の台頭について、美和子は亡き夫、丹下から教えられていたかもしれない。もちろん最初からうまくいったわけではないが、しだいに地元の人たちからも信用され、助けられ、明治6年の初めごろまでには次々と仕立ての依頼を受けるようになった。ちょうどその頃、救助米が完全に停止されるが、美和子らには光子を学校に行かせるほどの余裕さえできていたのである。
女性ばかり四人の家族は、厳しい冬を三回越え丸三年、田名部で生き抜いた。
むつ市の市街と釜臥山
今回の旅で、残念ながら曾祖母・光子らの居住した場所を特定するまでに至らなかった。ただ、当時の田名部中心街に〝千〟とつく宿屋の存在は、むつ市役所で確認された。東京に戻って一週間ほどして、むつ市教育委員会生涯学習課М氏から調査書類が送られてきた。
それによると、確定は出来ないが宿屋〝菱千〟は〝金千〟ではないかということであった。金千は、田名部の中心市街地だった本町通りにあり、埋め立てられる前の海辺からも遠く離れていない。
その位置を現在の住宅地図に落した図面も同封されていた。銀行や信金の店舗近くで、現在更地になり月極駐車場となっている。
さらに、その地図を見て驚いた。
旅の早朝、宿泊していたホテルから市役所に向かうバスの発着所であるバスターミナルを探して吹雪の中を迷い歩いていた辺りに金千の跡はあったのだ。吹雪だったにせよホテルで手渡された案内図を見ながらであり、目的のバスターミナルは道迷うようなところではなかった。
私は、その時、先祖の霊に呼ばれ彷徨っていたのかもしれない。
本町通り小嶋商店の南、月極駐車場が宿屋〝金千〟跡地
私が金千と菱千を同一の宿屋と確信する根拠は、やはりM氏の調査書類の中にあった。
宿屋金千(秋濱旅館)を経営していたのは、家印を‘かくせん’とした江戸時代から続く商家だった可能性が高いと記されている。この商家は本町通りを挟んで反対側に秋濱商店も営んでいた。今風に言えば、ホールディングスということか。その家印‘かくせん’の図柄も同時に送られてきた。それは、なんと菱形の中に千と表記されているものだった。
つまり曾祖母は、宿屋金千のどこかに付けられていた家印‘かくせん’の図柄を憶えていて、逗留していた宿屋を菱千としたに違いないのだ。
回想記「光子」は、昭和16年、曾祖母が81歳のとき、8歳(明治元年)から18歳(同11年)までのことを思い出して綴られている。無理もない錯覚である。
いや私は、回想記「光子」を通して、曾祖母の記憶力に驚嘆させられるばかりなのだ。
そして、これほどまでに田名部における光子らの過ごした場所を明らかにしていただいた市教育委員会生涯学習課のМ氏に、心からの感謝の気持ちをお伝えしたい。
下北駅から大湊線で野辺地に戻った。その日はよく晴れていて、車窓から陸奥湾の青々とした水面に雪をかぶった釜臥山が浮いているように見えていた。とても美しい景色だった。
野辺地湊、常夜燈遺構から陸奥湾を望む
143年前、美和子や光子らは、会津若松から新潟に出て、船で三日がかりで野辺地に到着する。上陸後、最初に世話になるのが屋号三ツ星という商家であった、と回想記「光子」に記されている。「野辺地町史」によって、その当時、屋号三ツ星という商家は西村家で、当主は西村金之丞であることが分かった。家印も黒丸三つの下に一文字で、回想記に出てくるものと一致していた。
早速、町史編さんの事務局である野辺地町立歴史民俗資料館を訪ねた。そこで、野辺地の有力商家が軒を並べる「明治15年野辺地市街復元図」というものを見ることができた。そこに、はっきりと西村家が載っていたのである。直ぐに復元図を現在の住宅地図に重ねると、西村家の位置は診療所になっていた。名字も違い、西村家とは関係ないようだった。しかし驚いたことに、復元図に載っている西村家と一軒あいだを置いた有力商家、島谷家は、そのままの位置で商売を続けていた。ちなみに柴一家は、斗南への移住前のひと時、この島谷家で世話になっている。
西村家は、幕末から明治の時代、木材の商いで財を成した商家であったことが、資料館での調査で分かった。当主・西村金之丞は、光子が亡くなった自分の娘によく似ているとのことで、斗南移住後の美和子、光子一家に何かとよくしてくれた、と回想記に綴られている。
復元図によると西村家は、陸奥湾沿いに田名部から南へ伸びる道が青森に向かって折れる十字路の角から西へ二軒目の位置にあった。
明治3年9月、西村家に数日滞在した光子は、そこを出て直ぐの十字路を北に折れ田名部への道を進んだ。これからの生活の不安に、全身が押し潰されようとしながら。
明治5年4月、光子は、田名部からの道を西に折れて青森に向かった。県大参事・野田豁通の屋敷での新しい生活への期待を胸に秘めながら。
明治6年10月、光子は、十字路を曲がらず真っすぐ南へ進む。その時、懐かしの会津若松へ帰還できる喜びが全身に溢れていた。
野辺地の中心街に現存するその十字路に立つと、運命の岐路にある少女・光子のいくつもの姿が目の前を通り過ぎていった。旅の一瞬、そんな気がした。
(平成25年3月、鈴木 晋)
(次回は、曾祖母・光子の青森県大参事・野田豁通の屋敷における生活についてです)
2024年春季号 vol.5
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