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ザ・戊辰研マガジン

2019年03月号 vol.17

血で血を洗う水戸藩の藩内抗争

2019年03月05日 18:29 by norippe
2019年03月05日 18:29 by norippe

 私の家から20分ほど車を走らせると、もうそこは茨城県。そして東京に行くには常磐線や常磐自動車道を利用するが、茨城の県庁所在地である水戸市は必ず通る場所である。水戸というと真っ先に思い浮かべるのは水戸黄門。そして偕楽園に水戸納豆。しかし戊辰戦争を学ぶ者として、まずは徳川御三家である水戸藩を思い浮かべなければならない。

 幕末期の水戸藩は、「水戸学」という思想体系を背景に尊王攘夷運動が盛んであった。尊王攘夷の先駆けとなったのがこの水戸藩なのである。保守と改革、いつの時代も政治においてはこの言葉が交差する。今の世を早く良くしようとする改革派と、そんなに急がず現状を維持してゆっくり世直しをして行こうという保守派がいて、それぞれが思いをぶつけ合って社会が動いて行く。その典型的な二つの動きがこの水戸藩にはあった。

 水戸藩八代藩主・徳川斉昭が天保期(1830~44)に藩政改革を実施した。改革派の藩士には身分の低い武士が多く、その改革派は「天狗党」といわれるようになった。藩主を味方にした改革派は鼻高々となり、それに腹立てた保守派が「成り上がり者が天狗になって威張っている」と軽蔑した事から尊王攘夷の改革派を「天狗党」と呼ぶようになったと言われている。
 この改革派が藩の実権を握っていたが、安政5年(1858)将軍継嗣問題や通商条約調印をめぐり、大老・井伊直弼と対立した藩主の斉昭が謹慎処分を受けてから状況は一変した。水戸での蟄居を命じられた斉昭は、大老・井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺された2年後に亡くなるのであるが、その後、保守派が勢力を盛り返して派閥対立が激化していくのである。
 文久3年(1863)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主体とする尊王攘夷派を京都から追放した、いわゆる「八月十八日の政変」をきっかけに、水戸藩の実権を諸生党といわれる保守派が掌握したのだ。
 これに対して改革派の天狗党は、幕府に攘夷の実行を促すため、元治元年(1864)年3月27日、水戸藩の藤田小四郎らは筑波山にて挙兵したのである。「天狗党の乱」と言われるクーデターが勃発したのだ。昭和の二二六事件を彷彿させる出来事がこの時代にもあったのだ。


常磐道から見える筑波山


筑波山神社の参道入り口に建つ藤田小四郎の銅像

 天狗党の勢力は数百人規模に膨れ上がった。勢力を増した天狗党に対して、保守派の諸生党の攻撃が激しさを増し、さらに幕府が諸藩に追討を命じたことにより天狗党は次第に追いつめられ窮地に立たされるのである。
 天狗党は起死回生を図るために、当時京都にいた斉昭の息子である一橋慶喜を通じて、朝廷に尊王攘夷の志を伝えようと、慶喜のいる京都へと向かったのである。
 水戸藩の元家老・武田耕雲斎がその時の首領で、追討を避けながら現在の栃木県を経て、群馬、長野、岐阜を通り、風雪で寒さが厳しくなる中を40日間かけて約1000kmの道のりを歩いた。12月11日に福井敦賀の新保という小さな村落に辿り着いたが、天狗党の一行はその時すでに各藩からなる討伐軍に完全包囲されてしまっていたのだ。そしてその追討軍の指揮をとっていたのが、なんと天狗党が頼みの綱としていた一橋慶喜だったのである。そのことを知った天狗党の一行は唖然とした。そして同年12月20日、天狗党は降伏したのである。

 慶喜を頼って遥か遠い道のりを歩いて来た天狗党に対して、慶喜は冷徹な処置をするのである。降伏した天狗党の一行はまず寺に収容され、その後、肥料用のニシンを保管しておく蔵へ移されたのである。厳しい寒さと劣悪な環境の中に置かれた天狗党の中の20人以上が病死してしまった。
 慶応元年(1865)2月1日から幕府役人の田沼玄蕃守意尊が、天狗党の取り調べを開始したが、数日間程度の形式的な取り調べを行ったのみで、斬首353名、追放188名、流罪137名、水戸へ送致125名、少年11名は永厳寺預かりの処分が下された。なお、首切りの役目には福井藩・彦根藩・小浜藩が命じられたが、彦根藩は桜田門外の変にて水戸浪士に井伊直弼を暗殺されていた恨みもあり、役目を進んで申し出た。福井藩は松平春嶽が天狗党への一方的な罪人扱いを好まず断ったという。
 同年2月4日の武田耕雲斎以下25名の斬首を皮切りに、来迎寺の刑場で5回に分け、353名の類を見ない大量処刑が実施されたのである。
 薩摩藩は流罪のための船を用立てるよう幕府から命じられたが、西郷隆盛は「降伏したものを罪人扱いして誅殺するとは尋常の振る舞いでなく、道理に合わない」と言って断ったという。また、大久保利通は「是をもって幕府滅亡のしるし」と日記に記して憤慨し、勝海舟も「多数有為の士をして惨禍に陥らしめ、降伏の後も酷刑に失し、これがため志士一層憤慨の心を激動し・・・」と幕府の対応を批判した。
 その後、水戸藩では諸生党が武田耕雲斎の一族をすべて死罪にするなど、天狗党に関与した人々への粛清が行われたのである。


 幕末最大の悲劇とされたこの天狗党の出来事であったが、その3年後、江戸幕府が滅びると再び天狗党の残党が藩の実権を奪い返し、今度は諸生党に対する血なまぐさい復讐が始まるのである。明治元年10月1日(1868年11月14日)水戸城内にあった水戸藩の藩校・弘道館で水戸藩の保守派と改革派の戦いが起きた。諸生党と天狗党の戦いで、弘道館戦争と言われている。
 天狗党の乱が鎮圧後、水戸藩は市川三左衛門ら諸生党が実権を掌握した。しかし、戊辰戦争の勃発に伴って形勢は逆転する。朝廷から諸生党に対する追討令が出され、本圀寺党や天狗党の残党など改革派が続々と帰藩するのである。
 諸生党は藩地を脱して会津へ向かった。そして会津藩や桑名藩と合流して会津戦争・北越戦争など東北方面での新政府軍との戦闘に参加するのである。9月22日(11月6日)に会津藩が降伏すると、市川ら諸生党は他の敗軍と合流して、参戦のため防備が手薄になっていると思われた水戸を目指した。一行は500人とも1,000人とも伝えられる。途中の片府田・佐良土で大田原藩や黒羽藩の兵と交戦しながら、9月29日(11月13日)には水戸城下に到達した。

 諸生党軍の接近を知った改革派の家老・山野辺義芸らは周辺の兵力を水戸城に集結して防備を固めていたため、諸生党一行は入城することが出来ず、三の丸にあった弘道館を占拠したのだ。弘道館の責任者であった青山延寿は弘道館に駆けつけようとしたが諸生党に阻まれたのである。
 10月1日(11月14日)、改革派は城への攻撃を開始、激しい銃撃戦となった。改革派側は、87名もの戦死者を出すが戦闘を有利に展開するのである。諸生党は戦死者約90名ほか多くの負傷者を出して、翌10月2日(11月15日)夜に水戸を脱出した。この戦闘で、弘道館は正門、正庁、至善堂を残して焼失。城内の建物のみならず、多くの貴重な蔵書も焼失しまうのである。
 その後、改革派は新政府軍とともに敗走する諸生党を追撃した。諸生党は多くの脱落者を出しながら敗走を続け、10月6日(11月19日)の下総八日市場の戦い(松山戦争)で壊滅した。

 こうした激しい藩内抗争により、水戸藩では、優秀な人材がことごとく失われてしまったのだ。その結果、新しく誕生した明治政府に水戸藩からはひとりの高官も送り出せないという、なんとも悲しい末路をたどることになるのである。


福井県敦賀市にある「武田耕雲斎等墓」

(記者:関根)

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