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ザ・戊辰研マガジン

2019年03月号 vol.17

2019年3月号の表紙

2019年03月05日 18:29 by norippe
2019年03月05日 18:29 by norippe

  今月号の表紙は東京お台場。昨年、戊辰戦争研究会ではお台場集会が実施され、この第三台場を歩きました。



 1853年(嘉永6年)横須賀浦賀沖合に、ペリー率いるアメリカ海軍艦隊が突如として現れました。煙突から煙をもくもくと上げる巨大な黒い船4隻。いわゆる黒船来航であります。日ごろ江戸湾の警備にあたっていた浦賀奉行は、黒船を近くの漁村(久里浜)に上陸させました。巨大な大砲を構え、号令代わりに湾内に数発の空砲を発射。浦賀は黒船を一目見ようという見物人で溢れかえったと言われています。

 ペリーは浦賀に数日間停泊し、江戸幕府を威嚇しながら開国を要求。幕府側は「1年くらい猶予が欲しい」と返答し、ペリーは1年後に再来日すると告げて去って行きました。ペリー来航を機に、江戸幕府は強い危機感を覚えて海の防衛策に乗り出したのです。

 海上に洋式の砲台を建設することになりました。場所は品川沖。江戸の町を防衛するように、一定間隔で台場を設け、最終的には11~12基の砲台を設ける計画を立てたのです。海上砲台といっても、海の上にそんな場所はありませんでした。そこで江戸幕府は、海に土を盛って人工島を造り、そこに砲台を立てることにしたのです。これをペリーが再来航するまでに完成させなければなりませんでした。砲台の設計は伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門英龍に一任しました。建設には大量の資材が必要となり、木材は現在の千葉や八王子付近などから5,000本余りが切り出され、石材は伊豆や相模など海沿いの町から、さらに埋め立て用の土は北品川の高台(八ツ山や御殿山)を崩して運び出したのです。
 この途方もない工事を、ペリーが帰ってからおよそ1カ月後に作業が開始され、8カ月後には第1から第3台場が完成。そこからさらに8カ月ほど後に、第1~3台場の少し後方(陸地側)に、それぞれの間を埋めるように第5第6台場が完成したのです。
 第4台場と第7台場は財政難などを理由に途中で建設を断念。第8台場以降は未着手。当初の予定より少ない台数でしたが、それでもここに、5つの海上砲台が海の向こうに睨みを利かせるという、江戸幕府渾身の海上防衛線が完成したのです。

 ペリーは約束通り、1年後に再来航しました。一度は品川沖近くまで進んできましたが、品川台場を見たせいか、ペリー艦隊は横浜まで引き返していったのです。
 完成した台場は、江戸湾の防衛を担当していた川越藩(埼玉県:第一台場)、会津藩(福島県:第二台場)、忍藩(埼玉県:第三台場)が担当。九州佐賀藩の10代藩主鍋島直正が藩内に設立した技術機関が作成した最新の洋式砲が運び込まれ設置されるなど、国を挙げての大事業として展開。幕府が造ったものということで「御台場」と”御”をつけて呼ばれていました。
 その後、国の方針が変わり、日本は開国への道を進むこととなりました。品川台場の砲台が使われることはありませんでした。

 その後、明治政府によって東京湾周辺にもっと大規模な軍事施設が次々と建設されたこともあり、品川台場はその目的を失い、次々と行政や民間に払い下げられていったのです。
江戸幕府が技術と労力と資金を注ぎ込んで作り上げた御台場は、東京湾に浮かぶ島として利用され、品川から見て最も離れた場所に造られた第三台場については、1928年(昭和3年)に公園として整備され、一般に開放されることになったのです。

 1939年(昭和14年)、未完成ながら7割ほどが完成していた、品川に最も近い場所に建設中だった第四台場にも、新しい役割が与えられました。東京都市開発に伴う埋め立て事業。
 現在、羽田空港行のモノレールやオフィスビルが建ち並ぶウォーターフロント天王洲アイルがある、品川区天王洲町の埋め立て地の一部として陸続きとなり、人工島としての姿は消滅。さらに1961年(昭和36年)には、東京港の船の行き来の関係で、第二台場は撤去されることとなり、人工島自体が姿を消したのです。
 さらにさらに、過密する大都市東京に新しい土地を求めて、品川沖に埋立地を造る計画が浮上。1962年(昭和37年)以降、第五台場、第一台場が埋立地の一部として消滅。天王洲アイルから橋を渡ってお隣、品川ふ頭の礎として新たな一歩を踏み出します。品川ふ頭はちょうど、2つの人工島をつなぐように新しく造られた多くの船の積み荷を担うふ頭。
 台場として機能したことは一度もなく、人工島がそのまま後世の埋め立て事業に利用できたということは、幕末当時の土木工事の技術が高かったことを示していると言えるでしょう。

 1965年(昭和40年)、未完成だった第七台場が撤去され、海の中に沈みました。これで残るは、史跡公園として既に新しい道を歩み始めている第三台場と、手つかずの状態で残っていた第六台場のみとなりました。東京湾の埋め立て事業はその後も続くのです。
 1979年(昭和54年)には現在のフジテレビ本社などが建ち並ぶ13号埋立地が完成。東京に生まれた新しい土地であります。この埋め立てでは、品川台場が礎になることはなかったのですが、公園として整備されていた第三台場が新しい埋立地とつながり、地名も「お台場」と呼ばれるようになったのです。

 1993年(平成5年)にはレインボーブリッジが開通。臨海副都心として様々な企業や施設が次々と造られ、お台場は大都市へと変貌していったのです。最後に残った第六台場はレインボーブリッジの橋げたのすぐ近くに、建設当時のまま残っています。保全のため、残念ながら立ち入りは禁止。史跡として管理されています。

 20世紀末から21世紀にかけて、およそ40年ほどの間に、東京湾の風景は目まぐるしく変わりました。そして2020年、東京オリンピックでも、お台場で様々な競技が行われる予定となっていて、既存の施設の利用の他にも、体育館や観覧席などの建設も進んでいます。

(参考文献: Wondertrip)

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