勝海舟の言行録に『氷川清話』という本があり、その中にこんな一文がある。
「二宮尊徳は一度会った事があるが、至って正直な人だったよ。全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。時勢が人を作る例は、俺は確かに見たよ。」勝が二宮に会ったのは勝がまだ20代半ばの頃かと思われる。滅多に人を誉めることの無い勝が、二宮尊徳については高い評価をしていた。幕末という時代が生んだ偉大な人物の一人として扱っているのである。
薪を背負いながら本を読む姿の像は、かつて小学校などで設置された有名な人物である。通称は「二宮金治郎」と言われ、江戸時代後期の農政家そして思想家である。私利私欲に走らず社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されるという「報徳思想」を説き、疲弊していた多くの農村を救った。その半生は、小田原を中心とした農村の振興に努め、そして日本中に出向いて多くの功績を残し、「報徳」の心は日本人の規範意識となって今なお尊敬をあつめる偉人なのである。日本の国の勤勉さは、この二宮金次郎がもとで世界中に高く評価されている。
二宮金次郎は、ただの思想家でなく実践者でもあった。二宮の金言に「道徳なき経済は犯罪であり実践なき道徳は寝言である」という一文がある。二宮金次郎の「報徳思想」に共感し実践を続けた経営者には、豊田佐吉・安田善次郎・渋沢栄一・松下幸之助・御木本・稲森和夫など日本の経済発展に大きく貢献した人物が数多くいたのである。
二宮金次郎は相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれた。幼少の頃は裕福だった金次郎だが、たび重なる災害によって田畑を失い、借金を抱え貧困生活を余儀なくされた。しかしその中でも努力を重ね、20歳の頃には実家の借金を返済する程の成功を収めたのである。その功績が認められ、小田原藩主の大久保忠真に仕えると1823年には下野国の小田原藩領にて復興事業の役を命じられた。そしてその地にて行われた報徳仕法と呼ばれる政策は見事成功を収め、他藩でもお手本として広く伝わって行くこととなった。
その後、1833年に天保の大飢饉が発生すると藩命により下野国をはじめ小田原、駿河・相模・伊豆を転々とし、各地で復興のために尽力した。その後も各地で復興事業にあたり、生涯で600以上の村々の再興を成し遂げることに成功したといわれている。その功績を称えられ、死後、明治政府より従四位が贈られたのである。
1910年の東京彫工会において、彫金家の岡崎雪聲(せっせい)が出品した像が明治天皇の目に止まった。「薪を担ぎながら勉学に励む殊勝な少年」というテーマを天皇陛下が大変気に入られ、これが国の買い上げとなったのである。その像のモデルとなった人物が二宮金次郎だったのである。
明治政府が国策として掲げたのが富国強兵策であった。そしてそれを支える人材の育成として教育の充実が求められたのだ。国民は彼のように勤勉であれ、その才は長じて国家 に奉仕するものであれ、と「天皇陛下のお墨付き」の下、その像をモチーフにした銅像が全国へと普及するようになった。
学校教育や地方自治における国家の指導で「二宮金治郎」が利用された経緯には、金治郎の実践した自助的な農政をモデルとすることで、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金治郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われた。そして二宮金次郎は小田原から全国に知れ渡る存在になったのである。
金次郎を象徴するものといえば、背負っている薪であるが「金次郎少年は薪を背負いながら本を読み、勉学に励んだ」と、彼の勤勉さを象徴するエピソードのように語られている。実はこの薪は単なる「農作業の手伝い」ではない。金次郎は担いだ薪をどこに運んでいたかというと、売ってお金を儲けていたのある。
とりわけ金次郎の地元である小田原は宿場町。旅の宿には食事の提供される「旅籠宿」と食事の提供されない「木賃宿」があるが、多くの旅人は食事がない代わりに宿泊費が安い木賃宿に宿泊したのだ。その木賃宿では宿泊客が宿から薪を買い、客は自炊することが基本であった。この薪代を「木賃」という。すなわち薪の需要が非常に高かったため、彼が背負っていた薪も当時はとてもよく売れたのである。
薪を担いで歩きながら本を読んで勤勉というイメージが二宮金次郎の銅像であるが、必ずしも薪を担いでいる姿がすべてではない。
最初に像が設置された学校といわれている愛知県の豊橋市立前芝小学校の像は、薪ではなく魚籠(ビク)を担いでいるのだ。これは学校の所在場所が海から近いため、薪よりも魚の方が地元の雰囲気に馴染むであろうという製作者の意図に基づいたものだといわれている。
そして座っている像も存在する。栃木県は二宮尊徳が長い年月を過ごした第二の故郷といえる場所である。その栃木県の日光市立南原小学校にその像はある。なぜ座っているのかというと「二宮金次郎が歩きながら本を読んでいる姿は歩きスマホをイメージさせる。これは教育上宜しくない」 という苦情が保護者から寄せられたためで、その要請に応える形で「座っている銅像」にしたというのが学校側の説明である。
ながら歩きは危険だが、金次郎はそんなことを教える目的で学校に設置された訳ではないはず。まわりに同調する学校側の対応にも問題があるのではないだろうか。
今や道を歩けば大の大人がスマホ片手に歩いている姿ばかり。都内の電車の車内では、ほとんどの人がスマホ画面に見入っている。こんな姿を子供に見せる事のほうが遥かに教育上宜しくない。車を運転しながら電話をしたりメールをしたりで、道路交通法が整備されたが、法律なんてなんのその!運転しながらスマホの違反行為は後を絶たない。大人が姿勢を正さない限り、子供だけに道徳を押し付けても無理。いつまでたってもこの問題は解決出来ないだろう。
金次郎の功績を分かりやすく伝えようとした先人の配慮が、現代になって「大きな誤解」を招く要因となってしまい、像を撤去する学校が増えているという。何とも皮肉な顛末である。
(記者:関根)
2024年春季号 vol.5
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