【中野竹子の銅像】
会津若松市七日町から会津坂下町へ向かう通りを車で走ると、会津天宝味噌で有名な看板を右に曲がると中野竹子の銅像を発見できます。
【涙橋の戦い】
慶応四年八月二十五日、娘子隊は、涙橋にて新政府軍と遭遇、のちに「涙橋の戦い」と呼ばれる戦闘になった。
新政府軍は、相手側に女性が交ざっていることに気づくと、彼女たちを生け捕りにしようとした。しかし生け捕りを恥とする、娘子軍の渾身の太刀を受け、慌てて銃を構えたという逸話が残されている。しばらく両軍は銃撃戦を繰り広げるが、埒のあかない様子に、ついに娘子隊は新政府軍に斬りこんでいった。中野竹子も、何人かの兵を薙刀で斬り殺して善戦する。しかしそのとき、一発の銃弾が竹子の額を穿った。頭を撃たれ(胸を撃たれたという説もある)、重傷を負った竹子は、けれどまだ息があったという。そのわずかに残った意識で、竹子は自身の首を取られないように、当時まだ十六歳と年若い妹に己の介錯を頼んだ。会津坂下町の法界寺にあった梅の木の根元に埋葬されたという。
竹子は出陣の際、携えた薙刀の柄に次の一句を書いた短冊を括り付けていた。
“もののふの猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも”
鉄砲の前では非力な薙刀でも、それまでの戦いで死んでいった会津の同志を想うと戦わずにはいられなかったのだろうか。女性とはいえ、兵たちに負けず劣らずの覚悟を決めた竹子の遺志が伝わってくるようだ。
【現在の涙橋】
【会津坂下町の法界寺の中野竹子の墓】
【法界寺の寺内に展示されている中野竹子の肖像画】
[追 伸]会津坂下町には、私が小学四年生~小学六年生までの三年間住んだことがあります。その頃から大好きでした「いしやまの冷やしラーメン」。真冬でも美味しい絶品です。
【記者 鹿目哲生】
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