秋月悌次朗。私は、いつかこの人について投稿しようと思っておりました。ちなみに「戊辰戦争研究会のホームページの会員用掲示板」での私のペンネームは「秋月悌次朗」。
小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、熊本の学校で印象的な漢文教師に出会いました。穏やかな老賢者とでも言うべきたたずまいの人物。不思議なことに、彼が発するたった一言の言葉で、血気に逸る生徒たちも気持ちを静めることができるのです。剛毅、誠実、高潔。古き良き日本の魂を持つこの教師を、ハーンは聖なる老人、神のようだと回想しています。
秋月悌次郎は、幼少の頃、日新館の成績は抜群で、飛び級で通常より2年早く卒業した秀才に対し、会津藩から分家「秋月家」の創設を認められた。会津藩より江戸留学のお墨付きがでて、幕府の「昌平坂学問所」に入学した。書生寮に入ったが、布団の中で寝たのを寮生は誰も見たことがないというぐらいに勉学に励んだ。勉学への姿勢と品行が評価され、間もなく書生寮の舎長に任命された。江戸に学ぶこと14年、退寮にあたり悌次郎の真摯な姿勢に、住んだ部屋は「秋月先生苦学の間」として保存されたといいます。「昌平坂学問所」は、現在の東京大学の源流であり、当時トップクラスの教育機関です。そこで脇目もふらず学問に励み、日本一の秀才になりました。また、会津藩から出て他藩の人々と交流したことも彼の財産となりました。
会津藩に戻った悌次朗は、藩命により西国諸国を見て回ることになります。ここで得た知遇も、後の人生に影響を及ぼすことになります。悌次朗は、会津戊辰戦争で会津藩の主戦派であり、敗戦にさいしては軍事奉行添役(副奉行)をつとめ、手代木勝任と共に新政府軍の板垣退助のもとに赴き、降服開城の責任者として役目を果たしている。
戊辰戦争後、秋月悌次朗が猪苗代で謹慎していたところ、旧知の奥平謙輔(長州藩士)から手紙をもらい、ひそかに謹慎所から変装して小出鉄之助と共に抜け出し、越後(新潟地方)水原駐留中の奥平に直接面会を果たした。奥平は前原一誠の親友で、彼と前原は会津藩士に心を寄せ、寛大な処置を願っていました。秋月からも会津藩処分の寛大陳情を行っております。また、会津の将来を託す人材として山川健次郎と小川亮ら優秀な若者を奥平謙輔に預けました。
【奥平謙輔】
山川健次郎は国費留学生に選抜され、イェール大学で物理学の学位を取得、東大総長にまで上り詰めることになります。もう一人の小川亮は、長州藩士奥平謙輔の書生となり、後に前原一誠に預けられ勉学を続け明治7年より谷干城に従い熊本鎮台に於いて陸軍に身を置き、陸軍大佐にまで出世したものの、夭折してしまいました。少年たちはまさしく会津の未来への希望でした。
【山川健次郎】
【小川 亮】
越後からの帰途、越後街道束松(たばねまつ)峠(現在の会津坂下町の一部)で、秋月は「北越潜行の詩」を詠みました。悌次郎の憂い悩む気持ちを感じ取ることができます。会津坂下町の束松峠ではるか鶴ヶ城を望みこの詩を詠んだそうです。
有故潜行北越帰途所得 ~故ありて北越に潜行し帰途得る所
行無輿兮帰無家 ~行くには輿無く、帰るに家なし
国破孤城乱雀鴉 ~国破れて、孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治不奏功戦無略 ~治は巧を奏さず、戦いは略無し
微臣有罪複何嗟 ~微臣有り、複何をか嗟かん
聞説天皇元聖明 ~聞く説、天皇元より聖明
我公貫日発至誠 ~我公貫日(かんじつ。一貫して)、至誠に発す
恩賜赦書応非遠 ~恩賜の赦書応(まさ)に遠きに非(あら)ざるべし
幾度額手望京城 ~幾度か手を額(ぬか)にして京城を望む/p>
思之思之夕達晨 ~之を思い之を思うて夕晨(ゆうべあした)に達す
愁満胸臆涙沾巾 ~愁(憂い)胸臆に満ち涙巾(きん。手ぬぐい)を沾す(うるおす。濡らす)
風淅瀝兮雲惨澹 ~風は淅瀝(せきれき)として雲惨澹(さんたん)たり
何地置君又置親 ~何(いず)れの地に君を置き又親を置かん
【秋月悌次朗 詩碑(会津坂下町束松峠)】
【秋月悌次朗 詩碑(会津若松市三の丸)】
【秋月悌次朗と河井継之助との関係】
河井継之助が会津藩士秋月悌次郎と初めて会ったのは、安政6年(1859)7月28日、備中松山の文武宿「花屋」であった。継之助が松山に入って12日後のことである。悌次郎は花屋で二泊して8月1日西国の旅に発った。継之助の旅日記「塵壷」によれば、 「28日、晴れ、会藩秋月悌次郎来る。土佐の話などを聞く」(塵壷より)師の山田方谷が藩主の老中板倉勝静の命により江戸に向ったので、この期間を利用して継之助は中国、四国そして九州に足をのばした。10月10日、偶然にも長崎で悌次郎に再び会う。 二人で南京屋敷、蘭館、軍艦観光丸などを見学した。継之助はあらゆることに興味を示し、遂にアヘンを吸おうとしたが、同行した悌次郎が止めた。「山下屋へ移る後は、秋月悌次郎同宿、同間にあらず。秋月は薩摩、その他諸藩についての事を記すこと多し」 「唐館、蘭館を見ること、通詞(通訳)と懇意になることは、みな秋月の取り持ちなり、他日に江戸で会ったら一杯差し上げたい」「アヘンを吸う匂い香ばしく、好きな匂いなり、唐人勧めれど吸わず。通詞『吸いつけぬと悪し』と止める故なり。通詞は吸いけり」 (塵壷より)長崎でも女郎に興味を示す継之助と真面目一方の悌次郎の組合せが面白い。継之助ははきものをぬぎ、かまちにあがったところで顔見知りに逢った。顔見知りというよりもはや友人知己といっていいであろう。 やあやあとその男は大声をあげ、継之助に近づいてきた。会津藩きっての名士とされる秋月悌次郎である。色白でひげの剃りあとのあおい、みるからに偉丈夫であった。 秋月は号は韋軒(いけん)。明治後の学会ではむしろその号のほうで親しまれている。 (司馬遼太郎「峠」より) ある日、会津藩の召集で、大槌屋において幕府の主要な藩の会合があり、出席した継之助の前に悌次郎が現れた。長崎で別れて以来の再会であった。会津にもどった悌次郎は、越後口総督の一瀬要人に従って会津領水原代官所に入った。会津の兵糧、弾薬の補給口は新潟港で、そのため越後口は死守せねばならない。最強の佐川官兵衛が率いる朱雀四番士中隊も投入した。 長岡にほど近い加茂で長岡城の再落城と河井継之助の負傷を悌次郎は聞き嘆き悲しんだそうです。
【秋月悌次朗の熊本時代】
明治23年(1890年)、秋月悌次朗は熊本第五高等中学校の教授となりました。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの同僚となったのは、ここでのことです。
【小泉八雲ことラフカディオ・ハーン】
悌次朗は、穏やかな人柄でありながら、剛毅朴訥の精神を持ち、名物教師として生徒からも教師からも敬愛されました。熊本五高の名物行事に、遠足というものがありました。現在の遠足はバスや電車といった交通機関を使うものですが、当時は文字通り遠くまで足で歩く行事です。帰路、険しい山道をくだっていると、激しい雨が降り始めました。すると悌次郎は枯れ草を坂道に撒き始めました。生徒が一体何をしているのですか、とたずねると「こうして草を撒いておくと、あとから来る人が滑らなくなるからな」と答える悌次郎。生徒たちはその優しい心根に感動を覚えたのでした。また、悌次朗は、普段の生活こそ質素で、漬物屋から大根の葉っぱだけ買ってきてこれをおかずに食事をとっておりましたが、来客があれば玉露の茶をだし、客が変われば必ず新しいお茶を淹れていたそうです。学生が遊びにやってきたときは、酒を出すこともあったようで、学生のほうが遠慮すると、「諸君は料亭などへ行って酒を飲むことは慎むべきだが、わしの酒を飲むことは遠慮してきいかん」と言って、ずいぶん学生と酒を飲んだそうです。明治26年、ラフカディオ・ハーンは悌次朗の古希の祝いに際して、「毎日教えに御出になる時、いつでも私共の銘々にいつも親切な挨拶と、凡ての生徒にやさしき微笑と、先生の通路に居るどんな卑しい者にもやさしい言葉とうなずきを与えて、決して疲れた風や、不機嫌な様子を表されない事を私は見ていました。先生が寒い朝、教官室へおはいりになる時、先生は私共一同にたいして快活と暖かさをもって来てくださったようでした。その暖かさはいつもあまりよく燃えていなかった私共の火よりももっと暖かでした」と語りました。このハーンの言葉こそが、秋月悌次朗の人物と品格そのものの言葉ではないでしょうか。明治28年(1895年)、72才の悌次郎は熊本五高を辞し、故郷会津に戻りました。それから明治33年(1900年)に77才で没するまで、家塾で若者たちに学問を教え続けます。
【司馬遼太郎の「秋月悌次朗」について】
司馬遼太郎のエッセイ集の「余話として」の中で「ある会津人のこと」と題して、秋月悌次朗について記述しております。司馬遼太郎は会津若松市を訪問し、会津若松市の旧知の友と会うたびに、司馬が話題にするのは秋月についてばかりだったそうです。ひたすらに謹直律儀な性格一つで幕末会津藩の外交を担当した、会津藩士秋月悌次郎(韋軒)の生涯。会津藩は親藩であるが故に幕府の政治的経験が乏しく世間が狭く、京都守護職を命じられた際、渉外に長けた人材に苦慮した。下級藩士だった悌次郎は、藩校日新館の秀才として江戸に藩費留学し、幕府の昌平黌に10年以上在校し、全国に知人がいるという理由だけで会津藩公用方として登用された。秋月は薩摩藩士高崎正風(佐太郎)と提携し、八一八の政変を成功させ、会津藩は続く蛤御門の変で長州勢力を京都から駆逐するが、秋月はその時点では功を妬まれて京を去り、蝦夷地警備の代官に左遷されていた。後戊辰戦争で江戸から会津へ藩軍が敗走する頃、秋月も藩へ戻っている。秋月は越後官軍本営へ赴き、旧知の長州藩士奥平謙輔を頼って寛容な処置を乞うが容れられなかった。高崎正風もまた西郷に疎まれ、大久保に付くも政界に残れず、宮内庁の御歌掛として生涯を送った。秋月は一時東京で左院議官を勤めたが辞し、明治23年、67歳で熊本第五高等学校て漢文教授となり、その後77歳で東京で没した。熊本では同職の小泉八雲の深い崇敬を受けた。明治26年、高崎の来訪を受け痛飲し語り明かした記録が残る。同藩の者では心を開き難かった往時の回想を、政治的ライバルであった高崎とのみ感傷的になれたのであろう。
司馬遼太郎は、「幕末の会津に限って言えば、容保公は別格として、山川でもなく、佐川でもなく、秋月が一番好きだ」と語ってエッセイ集の「余話として」で、ある会津人として秋月悌次朗を記述したそうです。
幕末という動乱の時代を生きたのち、教育者として生き抜いた秋月悌次郎。その高潔で朴訥とした生き方は、すがすがしい風のような爽やかさを感じるばかりです。まさに、神のような人物だったことでしょう。
【記者 鹿目 哲生】
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