高祖父・鈴木丹下の岳父・小野権之丞の足跡を追って、函館に旅した。
例年と比べて殊の外暑い夏の日が続いていた。北の街にも容赦ない日差しが降り注いでいた。
明治元年(1868)10月12日、小野権之丞は、榎本武揚指揮下の軍艦蟠龍に京都以来の盟友である諏訪常吉と共に乗り、仙台石巻から箱館に向かった。同月22日、榎本軍と新政府軍が蝦夷地で衝突、箱館戦争が始まる。
小野は、上陸後直ちに榎本の命を受け、高松凌雲を院長とする野戦病院である箱館病院の事務長に就いた。諏訪は、会津遊撃隊の隊長となり、戦場に赴いていった。
幕末維新という時の流れの中で、小野が常に願っていたことは「戦争の回避」と「会津の無事」だった。しかし彼の箱館での七カ月は、おどろおどろしい戦と多くの死に向き合う日々となった。会津藩も、同年9月22日、新政府軍に全面降伏し、前途は不安ばかりだった。
私の旅は、この箱館病院の跡を探すことから始まった。しかしその位置は、どんな地図や観光案内書にも記載されていない。ただし、明治初頭のわずかな間、箱館病院を継承して現在の市立函館病院が運営されていたことが知られている。つまり、そこは市立病院発祥の地だった。
吉村昭著「夜明けの雷鳴 医師高松凌雲」に、わずかに箱館病院の位置を示唆する記述がある。
『病院本院を、姿見坂を上がった山ノ上町の旧幕府箱館医学所においた』
姿見坂は現存するが、山ノ上町は現在の函館市に存在しない。
さらに、『その裏庭から、箱館湾がよく見えた』
高松凌雲は、戦争終結の一週間前、榎本海軍の蟠龍が新政府海軍の朝陽を撃沈するのを病院裏庭から目撃していたのである。
私は、この二点を拠り所にし、箱館病院の跡を探すことにした。
函館は坂の街である。函館山の中腹を北西から南東に貫く道路(寺町二十間坂線)から、北東の方向に函館湾を目指して沢山の坂道が走っている。
私は、湾沿いの市電通りから、その一つ姿見坂を上っていった。
しかし、坂の上周辺を相当な時間をかけて探したが、辺りには民家ばかりが建ち並び、「幕府箱館医学問所跡」、「箱館戦争時の野戦病院跡」、「市立函館病院発祥の地」など史跡を示すものは一切見つからなかった。
私の力ではその位置を特定することは無理と判断し、函館市中央図書館の協力を仰ぐことにした。
函館市中央図書館は五稜郭の西側に立地している北欧風の美しい現代建築である(設計、佐田祐一)。その2階のレファレンス・カウンターに働く女性職員の手際のよさも際立っていた。
彼女は、先ず「市立函館病院百年史」から『官許箱館全図、万延元年』を見つけ出し、そこに幕府医学問所が書き込まれていることを確認した。さらに、別の文献から当時のその辺りの町名を探し出し、それを現在の町名に置き換えていった。そして、それらの情報を現在の住宅地図に落とし込んでくれた。1時間ほどの大変に手際よい作業だった。
特定された箱館病院の位置は、姿見坂と幸坂に挟まれ、寺町二十間坂線道に接した湾側の一画で、現在、弥生町八番地となっていた。
函館・姿見坂、手前左側の弥生町八番地が箱館病院の跡
実はその辺り、昨日、散々歩き廻った場所だった。再びその地を訪れ、注意深く観察した。
そうすると、傾斜地を造成する時に組まれたと思われる古い石組みが所々に残されているのを見つけた。さらに、そこに建つ民家の間の細い路地を進むと、巨石が置かれ数本の古 木が残された場所に出た。公共施設にあった庭園の跡のようだ。箱館病院(市立函館病院の源流)の施設が撤去された後、ここには清国領事館が建設されたと著作「函館の史蹟と名勝」に記されている。見つけた庭園跡は、清国領事館内に造られていたものに違いない。
そしてなによりも、その辺りから、夏の日を浴び青く輝いた函館湾の水面とそこに浮かぶ船がはっきりと見えていた。
間違いない。この地こそ、高松凌雲や小野権之丞らが、箱館戦争時、敵味方を区別することなく傷病兵たちの回復に尽くした野戦病院の跡だった。
『官許箱館全図、万延元年』に拠ると、箱館病院を少し下がったところに神明社と高龍寺があった。
調査の結果、神明社は函館市北消防署弥生出張所とその下の道営住宅を合わせた地に位置していたことが分かった。
神明社は桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだたか、松平容保の実弟)の御座所になっていたが、明治2年(1869)4月、箱館戦争終結直前、定敬は藩の恭順に従いここを去った。
神明社は、9年(1876)、幸坂を登り切ったところに移り山上大神宮となっている。
箱館病院分院となっていた高龍寺は、神明社のすぐ下にあった。従って、本院とは幸坂で至近距離に繋がっていて、きわめて合理的な設営だった。
小野権之丞日記、5月9日
『晴、戦なし。土方来る』
この土方とは、新選組副長として、京都でその名をとどろかせた土方歳三である。
これまでに小野は、会津藩が差配していた新選組と長いつき合いがあった。京都で藩の公用人に就いた時から六年越しである。
小野日記には、箱館病院を訪ねた土方との会話の内容は記されていない。文久3年(1863)からの来し方を、お互い思い出しながら語らっていたのかもしれない。
土方歳三は、この二日後の11日早朝、五稜郭から新選組が守備していた弁天台場が敵に包囲されたため出陣、途中、一本木関門で銃弾に倒れた。享年35。波瀾に富んでいたが短い生涯だった。
同日記、5月11日
『晴、早朝より、敵の山上からの発砲が迫り、諸方からの砲声も大きくなってきた。傷病兵が心配なので、かねてより病院護衛を約束してくれていたロシア領事館へ、すぐにでも病院の方に出向いてほしいと嘆願に行った。その帰路、不動の前で官軍に出会い、鳥居下に縛られてしまった。一時余そこに居て病院に帰る。その直前、病院本院は官軍に押し込まれたが、談判により無事であった。分院では津軽藩が侵入、傷病兵や職員ら十数人が殺害された』
明治2年5月11日、新政府軍は、箱館に総攻撃をかけ、市内をほぼ制圧した。
その日、箱館病院は大変なことになっていた。
新政府軍の津軽、松前両藩の兵士たちが病院に押しかけ、入院患者の引き渡しを武力でもって迫った。しかし高松凌雲は、『戦いに倒れた傷病兵と治療にあたる病院は、いかなる時も守られるべきであり、これは萬國公法においても保障されている』と毅然として告げ、兵士たちの病院への立ち入りを拒否した(『夜明けの雷鳴 医師高松凌雲』)。
薩摩藩軍監・山下喜次郎が、これを是とし兵を引かせた。こうして本院は守られたが、高龍寺分院には新政府軍が押し入り、無抵抗の傷病兵を襲い、寺に火をつけた。そこには会津遊撃隊の兵士たちもいて、多数が犠牲になった。
新政府軍の兵士たちは、戦いに傷つき病床に臥していた全く抵抗できない人々を刺殺、焼殺したのだ。戦争のさなかとはいえ、おぞましい残虐な行為である。
灰燼と帰した高龍寺の伽藍は、12年(1879)、現在の船見町に移って再建された。
現在、高龍寺の境内には、本堂近く「傷心惨目」の碑が立っている。2年5月11日に箱館病院分院で惨殺された旧会津藩士たちの供養のため、13年(1880)、同藩出身有志の手によって立てられたのである。
高龍寺・傷心惨目の碑
小野日記に記されているロシア領事館は、幸坂の上にある旧ロシア領事館ではない。その時、ロシア領事館はハリストス正教会の敷地内に置かれていた。不動とは八幡宮のことであろう。 函館八幡宮は、現在、海峡側の谷地頭町にあるが、当時、八幡坂の上で今の函館西高校の前にあった。
これで、小野日記に記されたロシア領事館、不動、箱館病院が、一直線につながるのである。
ハリストス正教会
日記に拠れば小野は、その日早朝、八幡坂中腹辺りにあった鳥居下に縛られたまま箱館湾やその沿岸で繰り広げられている激しい戦を見ていた。ちょうどその時、榎本海軍の蟠龍が新政府海軍の朝陽を砲撃し、朝陽が爆発炎上して轟沈するのを、彼は目撃した。榎本海軍、最後の戦果だった。
実は土方歳三も、一本木関門で新政府軍と対峙していた時、朝陽が爆沈する轟音を聞いている。その一瞬の混乱に乗じて新政府軍の囲みを突破しようとしたのである。
後に小野は、土方の11日早朝における一本木関門での死を知り驚愕する。盟友の最期を確かに見届けていたのだ。
私は、八幡坂の途中鳥居の立っていた辺りで、先に広がる函館湾にずっと目を凝らし、小野権之丞の思いに考えを巡らしていた。
そして、夏の夕日が海を染めようとする頃、灯のともり始めた函館の街に向かってゆっくりと坂を下りていった。
(平成24年8月、鈴木 晋)
(次回は、箱館戦争の終結に関わった小野権之丞と、その最期までについてです)
2024年春季号 vol.5
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