大和・天領の百姓一揆 「芝村騒動」 そのⅣ、、続きです。
厳しい取り調べ、犠牲者次々と
吟味といっても、それは拷問による取り調べであったことは間違いなかったようです。
はじめは口を閉ざしていた者の中にも少しずつ綻びが生じ始めます。そのあたりのことは 常盤村・森文書に生々しい尋問の模様を一部紹介してみましょう。
一、同十九日、四村の庄屋・年寄指紙で(呼び出され)吟味された。
膳夫村の庄屋三郎助と新賀村の庄屋彦惣の両人は先に入牢した者たちが「この人が事情を よく知っています」と申したため、入牢仰せ付けられた。小左衛門(葛本村庄屋)と弥右 衛門(同百姓代)は宿へ帰った。
一、百姓代が牢内で責められて申したことは、「箱訴の下書きは太四郎(木原村頭庄屋)が持参してきたものが良かったので、これを採用した。もっとも八村の内五、六村からも下書を持参してきた」という次第であった。
一、閏二月五日指紙にて小左衛門(葛本村庄屋)、彦次郎、弥右衛門、忠兵衛の四人と頭庄屋である木原村の太四郎の五人が吟味された上で入牢仰せ付けられた。
醍醐村の庄右衛門が「頭庄屋らが何かとよく存じています」と申したための人牢であった。
同日、四村の百姓代のうち、常盤村の久三郎と六次郎が「又五郎京都へ飛脚に参るようにと申されたので行った」と述べ、この両名と葛本村の弥右衛門、膳夫村の孫三郎の四人が牢を出ることができた。 新賀村の藤四郎が牢内で病気のため亡くなった。残りは牢にいた。それぞれ皆々のためと江戸へ下った。
同十日には常盤村の六郎次郎が出牢後、果ててしまった。
同十五日葛本村の善兵衛、新賀村の彦惣、膳夫村の武助の三人は出牢し、新賀村の藤四郎が牢内で病死した。
同十九日指紙にて常盤村の藤兵衛、源助、忠助の三人が召し出され、藤兵衛は「元来病気なので何も存じません」と申し上げた。もっとも木原村頭庄屋の太四郎が偽りを申していると言うので、右の三人を召し出して忠助と太四郎を対談させたところ、忠助は「木原村 へ行った件など一向に知らないし、行ってもいない」と申し上げた。
それで太四郎が「常盤村には年寄が多く、いちいち名も知らないが誰かが一人でやって来た」と申したため、源助が呼び出された。「その方が木原村へ稲を刈り取らず箱訴を願いたいと申して来たと太四郎が申しておるぞ」と仰せられた。
源助は「私が木原村に行ったとの件については一切存じません」と申し上げたが、太四郎は「年寄の中の一人が来た」と申した。ますます「源助ではないか」と吟味の役人が仰せられたので、源助は「しからば恐縮ですが太四郎と対決させてください」と申し上げたが 「そのようなことはできぬ」と仰せられ、「源助は随分わがままを申しておる」と仰せられた。
これに対し源助は「私が木原村へ行ったように仰せ聞かされたので、太四郎と対決させてください」と申し上げ、「源助も明日来るように」と仰せつけられた。
同二十日源助だけの吟味が行われ、木原村へ行ったかについて糾されたが、「何分にも存じません」と申し上げたところ、「有り体に申さないと牢に入れるぞ」と仰せられたが、「行っていない事を行ったとは申し上げられない」と言うと「また明日出てこい」と仰せ付けられた。 等々、以下略
拡大する取り調べ~式下郡、葛下郡の村方役人も江戸に召し出し~
厳しい吟味を行っても、思うような証言が得られなかったのか。それとも新しい証言が得られたせいでしょうか。箱訴を行った十市郡九村以外の村にも取り調べの範囲が拡大されていきます。
七月十二日、十市郡常盤村の定七、出合村の源助と伊兵衛が、また同じ十市郡の下之庄村の善九郎、高家村(現桜井市)の源五郎、作重郎、倉橋村(現桜井市)の清次郎、式下郡大安寺村の平三郎、東井上村、蔵堂村、為川村(以上現田原本町)、桧垣村、南桧垣村 、遠田村(以上現天理市)や葛下郡の一行も江戸に向かって出立します。
葛下郡一行は、王寺村(現王寺町)から五人、曽根村(現大和高田市)から一人、北花内村(現葛城市)から二人、亀瀬・藤井村(以上現王子町)から各一人、良福寺村(現香芝市)から一人、当麻村から二人、大橋村(以上現葛城市)から一人で計八村十四人です。
一行は二十五日に江戸に到着しますが、二十七日には勘定奉行一色周防守のもとへ引き渡されます。これらの村の共通点は、元は郡山藩領であり、その後天領とされ、二割半の増高無地を有したまま芝村藩の預り所となったということです。したがって箱訴をした十市郡の九村と同様、「畝詰り」で苦しんでいたから、共謀していたのではないかという嫌疑がかかったのでしょう。
無情な仕置き(処罰)
宝暦五年(1755)八月七日、ついに厳しい仕置きが下されます。最初の箱訴を行ったのが宝暦三年十一月二日でしたから、二年弱の歳月が経過していました。
一年八か月にも及んだ江戸での取り調べで吟味を受けた者は三郡三十三村の二百二十一人にも上っています。この中には入牢中や出牢直後に病死した人たちも含まれており、また死から免れ、かろうじて生き残った者たちにも厳しい処罰が待っていました。
「死罪」 常盤村 彦市(病死)
「遠島」 葛本村 百姓代善兵衛一三宅島 同弥右衛門一八丈島
膳夫村 庄屋三郎助一新島
八条村 年寄与重郎一新島
「追放」 葛本村 庄屋小左衛門、年寄平兵衛、同嘉兵衛、同太兵衛(病死)
百姓代嘉平次(病死)
常盤村 年寄源助、組頭惣(宗)助
石原田村 庄屋忠兵衛、年寄源兵衛
吉備村 庄屋彦次郎
下八釣村 庄屋藤兵衛
木原村 頭庄屋太四郎、庄屋源七
新賀村 年寄甚兵衛
内膳村 庄屋惣四郎
八条村 庄屋八郎兵衛
治右衛門
弥次兵衛
処分の内容は死罪が一人、遠島が四人、追放が三十二人でしたが、それまでに三十七(三十八)が牢死(宿で亡くなった者も含め)していました。
死罪となった彦市も、宝暦四年閏二月二十四日にすでに病死していました。おそらくは拷問の果ての死であったろうといわれています。幕府は彦市を首謀者の一人とみなしていました。
「稲の刈取り拒否と箱訴を誘ってきたのは常盤村の年寄です」と白状され、「それは偽りです」と訴えた常盤村の年寄源助は追放処分となっています。 遠島になった者の田畑、家屋敷、家財は闕所となり没収されました。
追放は重・ 中・軽の三種類に区分されますが、重追放では遠島同様の仕置き、中追放は田畑、 家屋敷が没収され、軽追放では田畑が没収さています。
春日神社(橿原市常磐町)にある「連碑」 裏に箱訴に関係した孫右衛門・藤兵衛・惣助・忠助・彦市・六次郎・惣七の名が刻ま れ、「為此輩建焉」と功績を称えています。
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