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ザ・戊辰研マガジン

2019年11月号 vol.25

司馬遼太郎文学碑(会津若松市・會津鶴ヶ城三の丸)

2019年10月27日 18:37 by tetsuo-kanome
2019年10月27日 18:37 by tetsuo-kanome

 “会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作”と、司馬遼太郎が会津藩の教育や精神文化を高く評価し語りました。「司馬遼太郎文学碑」には随筆「歴史を紀行する」と、最後の藩主、松平容保を描いた小説「王城の護衛者」のそれぞれから抜粋した文章が碑に刻まれております。

 

 2013年11月2日、真の会津の歴史を記した作家の故・司馬遼太郎氏の思いを伝える「司馬遼太郎文学碑」が會津鶴ケ城三の丸に設置され、除幕式が行われました。文学碑は司馬氏の作品を記した銅板を高さ1.4メートル、幅2.7メートルの磐梯石に取り付けました。碑文は、随筆「歴史を紀行する」と、幕末の会津藩主松平容保公を描いた歴史小説「王城の護衛者」の一節。司馬氏と親交があった郷土史家の故・宮崎十三八さんが生前、文学碑の建立を訴えていた。遺志を継いで、当所をはじめとする経済・文化団体、企業などでつくる司馬遼太郎文学碑実行委員会(実行委員長=当所宮森会頭)が寄付金を募るなどして設置しました。除幕式には約50名が出席。宮森実行委員長が「司馬先生の書いた真の会津の姿を後世に語り継いでいく。広くご紹介頂き、会津の魂を伝えて頂きたい」とあいさつしました。その後、室井照平会津若松市長、司馬氏の義弟で司馬遼太郎記念館(大阪府東大阪市)の上村洋行館長、松平保久氏(会津松平家第14代当主)など出席し除幕しました。

 

【司馬遼太郎の「歴史を紀行する」の一節】

 「会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というものの中での最高の傑作のように思える。三百ちかい藩の中で肥前佐賀藩とともに藩士の教育水準がもっとも高く、さらに武勇の点では佐賀藩をはるかに抜き、薩摩藩とならんで江戸期を通じての二代強藩とされ、さらに藩士の制度という人間秩序をみがきあげたその光沢の美しさにいたってはどの藩も会津に及ばず、この藩の藩士秩序そのものが芸術品とすらおもえるほどなのである。秩序が文明であるとすれば、この藩の文明度は幕末においてもっとも高かったといえるであろう。」と記述されております。

 

【司馬遼太郎の「街道をゆく~白河・会津のみち」の一節】

 司馬遼太郎は、「会津藩について書きたい。なにから書きはじめていいかわからないほとに、この藩についての思いが、私の中で濃い」と詠ってから書き始めている。また、司馬は「幕末・維新の会津藩については私はつよい同情がある。」とも語っております。

 

 今回、改めて司馬遼太郎の「王城の護衛者」を読み返しましたら、司馬がどんなに会津を愛し尊重していたかがわかりました。司馬遼太郎の他の著書の中で会津藩に対する評価を調べれば調べるほど、嬉しくなる内容でした。 

【記者 鹿目 哲生】

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