「 ナアに、維新のことは、 おいらと西郷とでやったのサ。」 江戸無血開城のことを、 後年の勝海舟はそう豪語します。 もちろん、そんなに簡単に事が運んだわけでもありませんが、 勝と西郷が決定的な役割を演じたのは確かであります。
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慶応4(1868)年2月9日 和宮こと宮さんの婚約者であった有栖川宮熾仁親王を 東征大総督とし、 西郷らを参謀とする東征軍は、 東海道、東山道、北陸道の三道に分かれて江戸を目指します。
主力の東海道軍は西郷が率い、 2月28日 駿府(静岡市)に着陣しました。 そこに勝からの嘆願書が届きます。 それには、恭順している徳川を討つことの不当を詰り、 それでも攻めるのであれば受けて立つ用意があるとほのめかしてありました。 事実、 勝は最悪の事態を予想し 江戸焦土作戦と、軍艦8隻の幕府艦隊出動による迎撃態勢の構えをみせていました。 それにしても江戸市民百万の安否が気にかかる。 だから、ここはあくまでも勝得意のはったりの威嚇で、 平和裡に解決する覚悟でした。 西郷はこれを読み、 「これでは嘆願ではなく恐喝だ、 慶喜も勝も首を取る」 と周囲の者たちに断言しますが、 本心ではなかったでしょう。
3月5日 上野寛永寺に謹慎している慶喜の使命を帯びた山岡鉄舟が 生命をかけて東海道を突破し 駿府の東征軍本陣に乗り込んで西郷と会談し 徳川の真情を訴えます。 こうした山岡の決死の露払いもあって いよいよ勝と西郷の歴史的会談に移るのであります。
3月12日 東海道軍を率いた西郷は池上本門寺に到着。 そして翌日、 芝高輪の薩摩藩邸に勝は会談に赴きます。 江戸総攻撃は2日後の3月15日と決定しており まさに江戸の日本の興廃が懸った息詰まるような時を迎えたのでした。 ところが勝は西郷を前にして お茶を飲みながらの雑談ばかり。 ただひとつだけ 「官軍の江戸攻撃になれば、 皇女和宮こと静寛院宮の安全も保証しがたい」 とだけ釘をさしました。
翌14日、 勝は再び薩摩屋敷で西郷と会見。 前日の会見から尊敬しあう間柄となっていた両者は、 阿吽の呼吸で腹を割って話し合い 日本の将来という大義のために同意したのでありました。 そして、和議は成立し、 西郷は即座に側近の将たちに 明日の江戸城総攻撃の中止を命じました。
こうして、 慶応3年4月11日 江戸城明け渡しになり 薩摩、長州、尾張などの少数の兵が入城しました。
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慶長8(1803)年 から大政奉還の 慶応(1868)年までの265年間存続した徳川幕府も終焉の時を迎えました。
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ここで、瓦解の危機にあった徳川幕府を 老中の立場から助け見ていた人物を紹介したいと思います。 何回も登場をして頂いている 我がふるさと福岡県大牟田市 三池藩11代藩主にして最後の藩主となった 立花種恭公 です。
【 福岡県大牟田市 『 陣屋跡 』 】 種恭は 文久3(1863)年 27歳の時に幕府に召し出され 大番頭から若年寄に進み 徳川幕府終焉の慶応4(1868)年 には老中格となり会計総栽を兼ねました。 わずか32歳の時で その終戦処理にあたりました。 種恭は 幕府に召し出された文久3(2863)年から明治2(1869)年まで6年あまりにわたる 激動の日々のことを克明に書き記した 『 老中日記 』 なるものを残しました。 そして、 まさに江戸無血開城の日のことも記されています。
「 四月一一日 晴夜雨 昨日より品(品川)海碇舶 午前十時 西南の烈風起る 江戸大城 管軍へ引渡し 静寛院宮 天障院殿 何れへ御立退きか その所知れずと云う 徳川家の陸軍隊 必死奮発 豆 総 へ脱出すと 聞ゆ 」 私は上手く読み下せませんので それは読み手の皆さんにお任せするとして 江戸無血開城の1日のことが短くも 内容濃く記されていると思います。 混乱、そして降伏挙順を意としない幕府軍の様子も 想像することができる一文ではないでしょうか。
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種恭が記した老中日記は、 原著を読みやすく編集しなおした 『 花種恭公の老中日記 』 として大牟田市の三池郷土館が編集したものが 大牟田市立図書館に閉架図書としてあるので 行けばどなたでも読めます。 大牟田市立図書館に行けない人でも 東京永田町にある国立国会図書館にも所蔵されています。 今回、紹介した一文の他にも興味深い記述がたくさんあるので 小出しに紹介していきたいと思います。
<引用文献> ・学研 『 図説・幕末志士199 』 ・三池郷土資料館 岡本種一郎編 『 花種恭公の老中日記 』
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