【鳥羽伏見の戦い】
『鳥羽伏見の戦い』は、1868(慶応4)年1月3日、伏見上鳥羽の小枝橋で戦端が開かれました。新政府軍の4,000人に対して、旧幕府軍は15,000人と圧倒的に優勢だった。現在の城南宮(京都市伏見区中島鳥羽離宮町)の西方、鴨川にかかる小枝橋のたもとで両軍がにらみ合い、新政府軍の砲声を契機として、一気に伏見の街を巻き込む戦闘となりました。明治へと時代が変わる直前、京の伏見で勃発した戦闘が、その後の日本の未来を決したといっても過言ではありません。私は、NHK BSプレミアムで明治維新150年スペシャルとして放送されました「決戦!鳥羽伏見の戦い」を改めて見返してました。これまで知らなかったことが古文書をもとに判明した新事実が次々と明らかになったことを紹介されておりました。鳥羽伏見の戦いの結果で明治維新が左右されるが、勝敗の分かれ目はきわどかった。旧幕府軍15,000人、新政府軍4,000人と旧幕府軍が圧倒的に有利だったのに、新政府軍が勝った。そのわけは従来、新政府軍の銃が最新のものだったなど言われているが、そうではなかった。
背景は、慶応3年(1867)12月9日 王政復古のクーデターで西郷隆盛が率いる薩摩兵が御所を封鎖し新政府の誕生。徳川慶喜は、二条城から大坂城に移動。徳川慶喜は軍事的に優勢だったので、新政府側が根を上げて慶喜の政権への参加を申し出ると思っていた。ところが、徳川方の庄内藩が江戸で薩摩藩邸を襲って戦いになっていた。徳川の主戦派が、朝廷に薩摩を討伐する勅書を出してもらうため、京へ兵を送ることを提案し、慶喜は「勝手にせい」と言ったので兵を出した。
【敗因-1】 徳川慶喜は、大目付滝川具挙が無罪を訴え薩摩藩を訴える討薩表を持って、旧幕府軍の先鋒を率い京都に向かうことに対して、「勝手にせい」と言ったこと
新政府側には土佐藩山内容堂、尾張藩徳川慶勝、越前藩松平春嶽が入っていたが、薩摩と対立していた。旧幕府軍の出兵を受けて、西郷隆盛は鳥羽道と伏見に軍を進めていた。慶応4年(1868)1月3日(1日目) 旧幕府軍と薩摩軍が鳥羽街道で対峙した。薩摩軍は有利な場所に陣をしいて戦闘態勢が整っていたが、旧幕府軍は上洛のためとして銃に弾を込めていなかった。
【敗因-2】旧幕府軍は上洛のためとして戦う意志がなかったため、銃に弾を込めていなかった。
このため初戦は薩摩軍が勝った。これで薩摩軍が負けていたら、朝廷の態度はひっくり返っていたと思われる。伏見では長州藩、土佐藩などが待ち構えていた。新政府側はミニエー銃を持っていて、射程距離と命中精度が格段によかった。また、会津藩の白井隊がわきへ回り、土佐兵と向き合った。土佐兵は山内容堂の意向で戦うつもりはなく、白井隊に京への別の道の竹田街道を教えた。竹田街道には、新政府軍の姿はなく、会津藩の白井隊は竹田街道を進めば京まで行くことができたが、途中で引き返してしまった。もし、そのまま行って京へ達していたら、新政府内の反薩摩勢力が旧幕府側についた可能性が高かった。
【敗因-3】会津藩の白井隊が竹田街道で京に入ることができたが、途中で引き返してしまった。
新政府軍が伏見でも勝って、日和見の公家は徳川慶喜を朝敵とした。1月4日(2日目) 旧幕府軍の海軍は最新鋭の開陽丸を持っていて、大阪湾の制海権を持っていた。旧幕府軍の陸軍もフランス人から訓練を受けた部隊がおり、銃もシャスポー銃で、ミニエー銃より性能が高かった。シャスポー銃は、元込めができて7秒で撃てた。ミニエー銃は銃先から火薬と弾を込める必要があり、30秒かかった。この結果、二日目の戦いでは新政府軍を後退させた。しかし、夜になると旧幕府軍は兵を引いて、追討ちをかけなかった。旧幕府軍の指揮系統が混乱しており、最適な指示ができなかった。
【敗因-4】二日目の戦いでは、旧幕府軍の大阪湾の制海権を維持し、武器の性能も新政府軍を上回っており、新政府軍を後退させた。しかし、夜になると兵を引いて、追討ちをかけなかった。旧幕府軍の指揮系統が混乱しており、最適な指示ができなかった。
そんな中、戦い慣れた薩摩軍は旧幕府軍の指揮官を狙撃して、兵士の動きを止めた。
戦いの三日目の1月5日は、新政府軍に四斤山砲という新兵器が登場する。大砲にライフリングがされており、遠くへ飛び、貫通力が高かったので、旧幕府軍の陣地を破壊できた。旧幕府軍は退却し、淀城に逃げ込もうとした。入れれば、大坂城から援軍を得て挽回が可能だった。しかし、淀藩は徳川親藩であるのに中立を保ち、旧幕府軍を入れなかった。旧幕府軍は淀藩への連絡を取っていなかったが、新政府からは旧幕府軍につかないよう連絡が来ていた。
【敗因-5】淀藩の裏切り
そしてそして、錦の御旗が淀城の手前に掲げられた。これで淀城が新政府軍に落ちた。一方、徳川慶喜は大阪城内で大演説し、旧幕府軍の戦意を鼓舞した。1月6日(4日目) 旧幕府軍は味方の裏切りに会い、大坂城に撤退。旧幕府軍は大坂城に入って守れば鉄壁の守りがあり、新政府軍も容易に攻められなかった。また、制海権を持ってたので、物資の搬入は容易だし、江戸から援軍を呼ぶこともできた。 にも拘らず、徳川慶喜はこの日の夜に江戸に逃げた。
【敗因-6】1月7日(5日目) 徳川慶喜は、会津藩主松平容保と桑名藩主の松平定敬と共に、開陽丸に行き、江戸へ行くよう指示した。 艦長の榎本武揚が上陸していて不在だったので、澤太郎左衛門を代行にして命令した。
【江戸へ逃げ帰るため開陽丸に向かう徳川慶喜】
「鳥羽伏見の戦い」は、これだけの敗因で、旧幕府軍は新政府軍に敗退しました。なんか納得できますよね。
ただし、徳川慶喜は、父親が水戸藩の徳川斉昭で尊王攘夷の第一人者。母親は、皇族で有栖川家の吉子女王。徳川慶喜は、朝敵と呼ばれることだけは耐えられなかったと思われます。
【小枝橋~鳥羽伏見の戦い勃発の地】
【薩摩軍が陣取った城南宮と秋の山】
私は「明治維新」という言葉は好きではありません。当時、明治維新とは言われておらず、「御一新」と言われていたそうです。つまり、新政府の薩長の造語です。偽の錦の御旗を掲げて「鳥羽伏見の戦い」やその後の「戊辰戦争」につながりました。しかし、天下分け目の戦いとも言われている「鳥羽伏見の戦い」の真実が上記のように次々と明らかになると、旧幕府が負けるべくして負けたと言わざるを得ません。
ただし、維新の三傑と呼ばれている西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允は、明治10年(1877年)前後に時期を同じくして死去しております。つまり、明治の世の流れも見ることもなく世を去りました。
【西郷隆盛】
【大久保利通】
【木戸孝允】
一方、皮肉にも、徳川慶喜はその後、復権し公爵となり、1913年〈大正2年〉までの 76歳まで長生きしております。旧会津藩主の松平容保も明治26年〈1893年〉まで生きました。官軍と賊軍は、くしくも好対照な一生を送った事実も忘れてはならないと思われます。
【徳川慶喜】
【晩年の松平容保】
最後に、現在、ロシアがウクライナに侵攻して戦争となっております。本当に残念でなりません。新政府軍が会津に攻め込んできた歴史と酷似していると思わざるを得ません。ウクライナと会津藩がダブってみえてしまいます。
北京パラリンピックでは、3/4の開会式で国際パラリンピック委員会のパーソンズ会長は、戦争と憎しみの時代ではありません。世界はともに生きる場であり分断されてはなりません。スピーチの最後に両手の拳を握りしめて「ピース(平和を)!」と力強く訴えました。
私も心の底から、「Peace!」「Peace!」「Peace!」
【記者 鹿目 哲生】
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