【伊予松山藩松山城】
愛媛県松山市の中心部、標高132mの勝山に築かれた松山城。現存天守12城のひとつとして名前の挙がる松山城。天守だけでなく、多くの建造物が重要文化財に指定され、歴史的な価値を残しています。山頂に本丸、裾野には史跡庭園となっている二之丸と、堀之内公園として親しまれている三之丸が広がります。関ヶ原の戦いで活躍した加藤嘉明が初代藩主となり、慶長7年(1602)から四半世紀もの歳月をかけて築城しました。「現存十二天守」の一つで、城内には21棟の重要文化財があります。登るには、4つの登城道とロープウェイ・リフトを利用する方法があります。 ちなみに、「日本の城ランキング」で、松山城は全国第三位です。
安政元(1602)年に再建落成した天守は、三重三階地下一階の層塔型天守という様式で、江戸時代最後の完全な城郭建築です。天守と小天守、隅櫓を渡櫓で結ぶ天守建造物群は、代表的な連立式天守を備えた城郭といわれています。現存十二天守のなかで唯一、親藩・松平家によって建築されており、そのことを物語る「葵の御紋」が瓦などに見られます。また、防備のために構えられた櫓のなかで特に注目すべきは、本丸の北に位置する野原櫓。野原櫓は日本で唯一現存する望楼型二重櫓で、天守の原型といわれており、重要文化財に指定されています。
全国的にも珍しい、「登り石垣」と呼ばれる石垣があります。現存十二天守の中で「登り石垣」が残っているのは、松山城と彦根城だけ。ふもとの二之丸と山頂の天守を、山の斜面を登る2つの石垣で連結させたものです。彦根城のものより長く、全長は230m以上。南側にほぼ完璧なかたちで残っており、三之丸(堀之内公園)や県庁裏登城道で見ることができます。また、高さ14mを超える屏風折りの石垣や扇のような曲線美を見せる石垣も現存。壮大な石垣と城郭、木々が織り成す眺めは一見の価値ありです。
【乾門】
松山城の創設者は加藤嘉明です。加藤嘉明は羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、20才の時に賤ヶ岳の合戦において活躍し、七本槍の一人としても有名となりました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となります。そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて地割を行い工事に着手します。翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされました。その後も工事は継続され、四半世紀の後にようやく完成します。しかし、加藤嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津へ転封されることになりました。会津を治めていた蒲生氏が途絶えたことから、四十万石で伊予松山(愛媛)から会津に転封。その後、加藤嘉明は鶴ヶ城の改修と領内の整備を進めます。 彼の行った城の改修で鶴ヶ城は現在の姿になりました。しかし、その子・加藤明成が重臣と対立したのをきっかけに、会津四十万石は幕府に召し上げられることになります。また、加藤嘉明のあと、会津藩主蒲生氏郷の孫の蒲生忠知が1627年に伊予松山藩の藩主となりました。その後も、伊予松山藩は松平の姓で藩主が続きました。伊予松山藩と会津藩は、深いご縁があることを知りとても嬉しくなりました。
【松山城を築城した伊予松山藩主加藤嘉明公】
【伊予松山藩第二代藩主の蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)】
また、松山が生んだ正岡子規は、「松山や 秋より高き 天主閣」 と、松山城を詠んだように、愛媛県松山市の天空には『松山城』がそびえ立っています。 正岡子規をはじめ、この街から多くの俳人が輩出されたのは、この天守の圧倒的なスケールが松山に住む青年たちの想像力をたくましくさせたからかもしれません。
【正岡子規】
【天空の松山城】
【松山城天守から一望できる松山市内】
【松山城の鯱】
【松山城のポスター】
私は、初めて愛媛県の松山市を訪れ、いの一番に「松山城」に行きたいと思っておりました。「松山城」を築城した伊予松山藩の初代藩主の加藤嘉明公と会津のご縁から大変興味がありました。「松山城」は期待を裏切らない素晴らしい名城でした。幕末では伊予松山藩は、徳川幕府の親藩であったため幕府方につき、特に長州征討では先鋒を任され出兵。財政難の極致に陥った。この際に占領した周防大島において住民への略奪・暴行・虐殺を行ったことが後に長州藩閥から冷遇される要因となりました。伊予松山藩の第14代松平定昭は藩主になるや老中に就任。大政奉還後、辞職。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは松平定昭と藩兵は梅田方面の警備に当たっていたが、徳川慶喜が江戸に引き上げたと知り帰国する。この戦いにより朝敵として追討され、城内では先代藩主勝成の恭順論と定昭の抗戦論が対立するが、1月27日に戦わずに城を明け渡して土佐藩の占領下に置かれました。幕末では、伊予松山藩は「賊軍」となってしまい、この点でも、会津藩同様でとても親近感がわきました。
【記者 鹿目 哲生】
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