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ザ・戊辰研マガジン

2022年04月号 vol.54

【幕末維新折々の記・二十七】三春町

2022年03月13日 00:01 by tange
2022年03月13日 00:01 by tange

 慶応4年(明治元、1868)5月15日の上野戦争で彰義隊が敗れ、寛永寺貫主・輪王寺宮公現法親王は東北へ逃れることを決意する。輪王寺宮一行は、5月28日、平潟に上陸し、そこから泉、湯長谷を経て磐城平藩の城下に入る。
 磐城平から進む道として「そのまま常磐道を北上し仙台に至る」か、または「磐城街道を経て会津を目指す」の二つがあった。
 宮は会津を目指すことを選択し、険しい山道を進み、6月2日夕七つ時(午後4時)過ぎ、三春に着き、翌3日朝五つ時(午前8時)頃、三春を出立している(『三春町史第2巻』)。そして6月6日、会津若松に到着する。
 輪王寺宮が会津を選んだのは、会津藩主・松平容保の厚い気持ちに応えようとしたことが一番の理由であったと考えられる。容保は、同年1月鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸に戻り、翌2月会津へ帰国するに際して謝罪嘆願書を孝明天皇宸翰の写しを添えて託すほど、宮とは親しい間柄だった。そこで容保は、ひそかに一人の藩士を江戸に送った。藩主の命を受けた小野権之丞は宮の側近に接触し、「奥羽へ向かうなら、まず会津へ来ていただきたい」と伝えていたのだ。小野は、私の高祖父・鈴木丹下の岳父である。
 
 私は、輪王寺宮の三春を経て会津若松に至るルート、三春での宿所、宮の先触れ(案内者)などを知りたくて三春町歴史民俗資料館を訪ねた。同館のH氏に、親切に対応いただいた。
 H氏は、三春までのルートについて磐城街道で間違いないとし、会津若松へは郡山経由でなく、当時郡山より賑わいその北に位置する本宮(もとみや)ではないかと話す。本宮から中山峠を越え会津盆地に入った、と付け加える。
一行の宿所は「三春町史第2巻」で龍穏院と光善寺の二ヶ寺とされているが、より格式の高い龍穏寺が宮の宿所だったとして間違いないとのこと。
 私が一番知りたかった先触れについてH氏は、「三春町史第9巻近世資料2(資料編3)」を示し、「ここに、『宮様御先触ハ内藤長寿丸内唯と申候事』と明記されています。三春までの宮の安全は、その全てを磐城平藩が担っていたのです。同藩士・内藤長寿丸が責任者でした。小野権之丞は、宮を会津若松へ滞り無くお連れするため、一行の中にいたかもしれませんが、その立場は非公式だったはずです。それで、名前が記載されていないのです」と、説明された。
 「小野権之丞日記」は、慶応元年正月18日から同4年6月17日まで欠落して残された。この欠落が無ければ、一行を案内した小野の様子が明確になっていたはずだ。
6月18日に会津を出立し米沢、白石、仙台と、宮に仕えた詳細な記述が小野日記に残されている。会津への迎え入れの使者を務めた小野は、平潟上陸の5月28日からずっと宮に従っていた、と考えるのが自然である。 

 龍穏院(りゅうおんいん)へ向かった。
 輪王寺宮の宿所となった龍穏院の山門の下に、三春町教育委員会による説明板が立っているが、宮についての記述は一切無い。明治天皇の叔父宮という立場でありながら旧幕府側に与した宮の名を公に記すのは、今でも遠慮するということなのか……。
 宮の東北での足跡について記した大きな石碑が、磐城平城下で宿所となった八幡社神職宅の門前に立ち、正面に「明治戊辰 五月廿九日 北白川宮能久親王御遺蹟」と刻まれているのを過去に見ていた。そこにも、輪王寺宮の名は無かった。輪王寺宮公現法親王は明治2年(1869)に還俗し、5年(1872)に北白川宮家を相続したので、昭和になって立てられた石碑の刻銘に間違いはないが、やはり〝輪王寺宮隠し〟だったのではないかと思う。
 龍穏院は、8月23日つまり会津若松籠城戦勃発の日、薩州軍二番大砲隊長・大山弥助(巌)が山本(新島)八重の放った一発の銃弾に倒れ治療のため担ぎ込まれた寺で、新政府軍の野戦病院となっていた。
 さらに、旧三春藩士で福島における自由民権運動の中心人物、河野広中が政治結社「三師社」を11年(1878)に創設したのも、この龍穏院だった。
 急峻な階段を上り切ると正面に姿を見せる龍穏院本堂の銅板屋根は、最近葺き替え工事を済ませたようだが、形状が現代風でしかも大変美しい。工事の際、それまでの姿に、何らかの変更を加えたのであろうか……。


龍穏院本堂

 福島県中通りの中央部に位置する三春町は、幕末まで続く秋田氏の小さな城下町で、山並みに挟まれるようにひっそりと在る。その中心市街地は、ここが生まれ故郷の建築家、大高正人氏が当時の町長と共に昭和50年代初頭から四半世紀に亘って街づくりに努めた結果、心地よい魅力的な空間に生まれ変わった。
 街にアクセスしようと道を歩いて行くと、両側の歩道と車道の境に花を植えた80センチほどの高さのポールが道なりにずっと立っている。歩行者ばかりか車内からの視線にも配慮した仕掛けだ。
 中心街へ進むと、電線は全て地中に収まり、ほとんどの建物は一定の高さで抑えられ、屋根と壁の形や色には古くからの街らしい落ち着きを感じさせる。中心部に建てられた「交流館まほら」という大きな建築物は、交差する道に接する部分を街並みの高さに合わせ、その低く抑えられた屋根の仕上げも周辺と違和感がない。
 川の流れや緑の丘(散策路)などの自然が、造り直された街と調和しながら良く保たれている。満開の桜、新緑、紅葉など、四季折々の美しさも街に溶け込むようにある。
 三春町の中心市街地でなされたことは、全国の中小規模の市町村にも当てはめられる優れた都市デザインである、と確信した。



三春町・中心市街地、奥に「交流館まほら」

 調査のため訪れた三春町歴史民俗資料館には、自由民権記念館が併設されている。そこで、明治初頭の龍穏院の写真を見た。河野広中と「三師社」の関連で掲げられていた。その屋根は、茅葺きであったが現在と全く同じ形状で、明治の時から斬新で美しい姿だったのだ。
鈴木晋(丹下)


次号、「横浜・関内(その1)」

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