天誅組と十津川郷の運命を左右する、「上野地本陣」及び風屋「福寿院会談」の様子に ついては、吉見良三著「天誅組紀行」に詳しく書かれています。 また、「十津川草莽記」では同著者は文中で、次のように述べられています。 原理原則には強いが、政治的な駆け引きはまるで駄目な男としては、当然すぎる帰結 だった。それにしても、そんな男を藤本は何故、正使として大切な交渉の場に臨ませた のか。考えてみれば不思議である。あるいはこうなることは計算ずみで、最後に際して 天誅組の存在意義を思いきり叫ばせてみたかったのかと・・・ 十津川郷からの退去を承諾した天誅組は、その日(九月十六日)の夕方、吉村寅太郎の 隊が合流するのを待って撤退を開始しました。 当初、東南端の下葛川村まで南下し、瀞八丁を渡って新宮へ出ようとするも、和歌山藩 勢が行く手を阻んでいたため、やむなく東へ旋回、大峰山系に分け入り、九月二十日の 夕方、笠捨山の険を越えて、ようやく北山郷の浦向村に辿り着いた。十津川郷を抜け出 すのにまる、四日を要したといいます。
浦向正法寺 地元の旧家に残る記録「西尾家年代記」によると、一行は総勢二百四十人ばかり。 うち、中山忠光以下の隊士は約八十人で、残りは十津川の郷士と人足だった。 隊士はみな、大男で、鎧・兜に陣羽織を着、朱鞘の大小を差し、銘々槍、薙刀、鉄砲 などを持っていたという。 一行はその夜、寺垣内村の正法寺と、浦向村の旧家上平家など二軒に分宿、翌二十一日 朝、東熊野街道を北に向かって出発しました。同行してきた十津川郷士と人夫らは、こ こで別れを告げ、名残おしみながら十津川へ帰ったとあります。
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