なぜ唐津藩士が新選組に入隊するに至ったか。
新選組が 明治1(1968)年 北関東を転戦し、いよいよ蝦夷地に渡るという時です。 同年9月、 福島にいた 土方さん率いる新選組と 土方さんと大鳥圭介が率いる旧幕府軍は 榎本艦隊が仙台湾に到着したとの知らせを受けると仙台に向かいました。
この仙台に滞在していた際に、 唐津藩士のみならず桑名藩士、備中松山藩士たちは 新選組に加入します。 これは、 蝦夷地渡航にあたり 渡航を新選組を含む旧幕府諸隊は隊士の自由意志としたが 唐津・桑名・備中松山の藩士は、随行人数を制限されたため、 この選に洩れた藩士たちが 戦死や離脱により人数が減った新選組に加わり 蝦夷地にわたることになったのです。
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この時に新選組に加入した唐津藩士の 大野 右仲 ( おおの うちゅう ) さん のお墓が 東京都台東区 谷中霊園 にあるとのことでさっそく 谷中へと行ってまいりました。 しかし! 谷中霊園は予想以上の広さでして 大野さんのお墓は発見に至らず・・・。 また日を改めまして、 探しに行こうと思います。
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折角なので、 大野さんについてご紹介させて頂きます。
新人物往来社の 『 新選組大人名事典 上 』 に詳しく記されていたので 途中、割愛しながら引用させて頂きます。
『 大野 右仲 ( おおの・うちゅう ) [ 天保七年十二月八日 ~ 明治四十四年六月十一日 ] 箱館編成新選組頭取から、箱館脱走軍陸軍奉行添役。元肥前唐津藩士。二股口戦闘や五月十一日の箱館大激戦など、これまで不明とされてきた部分を含む、 俗に『函館戦記』と題される貴重な記録を残す。
十九歳のとき江戸に出て、古賀謹一郎などに学び才名あり。また安政三年から昌平黌に遊学。 旧藩世子でのち老中になった小笠原長行に重用され「長行の側に又七郎 (大野右仲の通称) あり」といわれた。
過激なところがあって、未遂には終わったものの、文久三年五月に長行に生麦事件の賠償金支払いを勧める 水野忠徳を暗殺せんと待ち伏せたこともある。
慶応四年三月三日、長行が難を避けるため江戸の藩邸を抜け出すのを見送り、会津藩士と密議を重ね長行の会津入りを画策する。その後、四月二十四日に会津で松平若狭守から 唐津藩士の統率心得方を命じられ二十九日には 清水屋に土方歳三を訪ね、野州での戦争の模様などを聞いている。
【 会津若松市 『 清水屋旅館跡 』 】
閏四月十九日に山久知文次郎、白井勇などを伴い登城して藩主をはじめ重役に会見しているが、この席上で越後方面の緊迫した情勢を知ることになる。
二十日になって越後長岡へ向かい、二十六日に同地へと達して、長岡藩家老を務める旧友の河井継之助と会談。 河井のために会津兵との間に立って意思疎通のために 奔走しており、二十七日に会津の佐川官兵衛に面会して、小千谷から長岡へ引き揚げた理由を問いただしたときに、長岡兵に以前から戦う気配が見られなかったので 信用できないからだとの返事が返ってきたため、河井の真意を説いて与板への出陣を実現させるに至った。
落城を前にして長岡藩公の避難についての 手配をも依頼されらことが『 史談会速記録 』に掲載された大野の談話に見られる。
城を囲まれているときでござりましたが、私が河井にいうには「私はここに遊びに来ているのであるから 討死をすることは嫌や、その代わりにお前の出来ぬことがあれば代わりにしよう」。「もちろん、それは死んでもらうには及ばぬ。君公をかたづけてくれ」。 ということで、五月十七日に同地を立ち、栃尾において長岡公と合流して、二十二日に会津に帰還している。
六月にも、 河井の陣営がある見附宿に至り、七月はじめに長行からの迎えとして 高橋恭輔が来たことによって引き揚げている。
これが河井との今生の別れとなった。 のち奥羽列藩同盟が瓦解をはじめたことにともない仙台へと逃れる。』
ここからが、大野さんが新選組に入隊に至るのですが 文字制限にかかってしまいそうなので次回に譲ります。 読んで分るように、 大野さんは私が思っていた以上に大物だったようです。 こんなお方が私のふるさと近くにいらっしゃったとは! リサーチ不足でした。
<引用文献> ・新人物往来社 『 新選組大人名事典 上 』 AD
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