【『会津藩主松平容保と新選組』】
【霊山歴史館】
今年は、松平容保が京都守護職に就任して160年目に当たります。幕末、政治の中心地は江戸から京都へ移りましたが、京都では尊攘過激派が幅を利かせ、治安が悪化していました。そこで将軍後見職の一橋慶喜や政事総裁職の松平春嶽が、京都の治安維持などを目的に京都守護職を新設することを決めました。そして慶喜と春嶽が白羽の矢を立てたのが、会津藩主の松平容保でした。文久2年(1862)閏8月、容保は京都守護職に就任、同年12月に上洛しました。 翌年の文久3年(1863)、将軍の徳川家茂は孝明天皇の攘夷祈願に随行するため上洛することになりました。その時、幕府は将軍の警護にあたらせようと、234人の浪士組を京都に送り込みました。そして彼らの一部が京都に残留し、京都守護職御預かりの壬生浪士組になり、のちに新選組と名を改めました。この企画展では、禁門の変や会津戦争などの資料から松平容保や会津藩、新選組にスポットを当てます。開催期間は、2022年1月26日(水)~5月15日(日)
私は、この企画展を知ってから見に行きたいと思っておりましたが、行けそうもないため、霊山歴史館のホームページの「見どころ」を紹介したいと思います。
【『松平容保 和歌 日光山』】
松平容保は、明治13年(1880)に、現在の栃木県日光市にある日光東照宮の宮司となりました。その際に、温泉で禊(みそぎ)をしたことを詠った和歌になります。
「日光山湯湖のたきを 湯のうみの あまれるたきの 本にきて なつはあつさを 先あらふらむ」と書かれています。
希少な松平容保の錦絵を初公開 『錦絵 京都戦争之図』 大蘇(月岡)芳年画。
元治元年(1864)に発生した「禁門の変」における松平容保を描いています。馬に乗った猛々しい姿の容保は、敵兵の首を提げた見事な武者ぶりですが、実際のところ、この頃の容保は重病で歩行も家臣に助けられないとままならない状態でした。それでも容保は小御所の庭に席を設け、天皇を守護しました。
新政府軍の作戦がわかる 『奥州会津若松戦地略図』
新政府軍が「会津戦争」最中の慶応4年(明治元年=1868)9月17日に作成した攻略図の写しで、原本の作成者は戊辰戦争で北越軍監を務めた三宮義胤。義胤は翌明治2年(1869)2月24日の白虎隊士埋葬の際、若き隊士の心情を察し、黙許した人物でもあります。この図により、新政府軍は会津若松の鶴ヶ城を4方向から攻めたことがわかります。
戦いに敗れた会津藩士の心情
『秋月悌次郎 北越潜行の詩』
会津藩士・秋月悌次郎の詠んだ詩です。戦時中、秋月は北越にいる旧知の新政府軍参謀・奥平謙輔(長州藩士)のもとへ降伏のため寛典(寛大な処置)を乞いに行きますが、容れられませんでした。その帰途、暗澹とした気持ちで 「戦争に敗れたため、国を出て行くにも乗る物がなく、帰るにも家がない。会津藩は敗れ、鶴ヶ城はスズメやカラスが乱れ鳴くばかりである」と悲痛な胸の内を詠みました。福島県会津坂下町に、この詩の石碑があります。
行無輿兮帰無家 行くに輿(こし)なく帰るに家なし
國破孤城乱雀鴉 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治不奏功戦無略 治は功を奏せず戦いは略無し
微臣有罪復何嗟 微臣罪あり復(ま)た何をか嗟(なげ)かん
聞説天皇元聖明 聞くならく天皇元より聖明
我公貫日発至誠 我が公貫日(かんしつ)至誠に発す
恩賜赦書応非遠 恩賜の赦書(しゃしょ)応(まさ)に遠きに非ざるべし
幾度額手望京城 幾度(いくたび)か手を額にして京城を望む
思之思之夕達晨 之(これ)を思い之を思うて夕(ゆうべ)より晨(あした)に達す
憂満胸臆涙沾巾 愁い胸臆(きょうおく)に満ちて涙巾(きん)を沾(うるお)す
風淅瀝兮雲惨澹 風は淅瀝(せきれき)として雲惨憺(さんたん)
何地置君又置親 何れの地に君を置き又親を置かん
霊山歴史館で開催されております『京都守護職就任160年記念企画展「会津藩主・松平容保と新選組」』の見どころの一部です。これだけでも見応え十分です。
私は、現在の仕事をリタイヤしたあかつきには、ゆっくり京都を訪問して、「霊山歴史館」「黒谷本陣」「会津藩士墓地」など会津藩にかかわりあいが深かった遺構を巡りたいと思っております。
【記者 鹿目 哲生】
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