明治元年(1868)の会津戊辰戦争に斃れた高祖父・鈴木丹下は、当時の日本では珍しい懐中時計を所持していた。その銀の時計は輸入品だったと考えられる。国産の懐中時計は、28年(1895)、精工舎によって初めて製造、販売されるまで無かったからだ。
幕末、丹下は会津若松、京都、江戸に居たので、それらに近い開港地で時計を購入したと思われる。会津若松近くの新潟港は、2年(1869)の開港で、彼の他界後なので除外する。京都近くでいち早く開港したのは神戸港である。しかし彼の滞在中、京都は毎日が戦争状態にあり、そこに勤めていた彼が神戸へ買い物に出かけるなどあり得ない。
つまり丹下は、安政6年(1859)に開港の横浜、それも商館の立ち並ぶ関内の外国人居留地で手に入れたと考えられる。時期は特定できないが、京都から江戸へ戻った元治元年(1864)から会津へ帰還する前年の慶応3年(1867)末までとして無理はない。
江戸期の時刻は、実際の夜明けと日没を「明六ツ」、「暮六ツ」とし、昼夜各々を六等分して一刻とした。従って一刻は概ね2時間であるが、同じ日の昼夜によっても、また季節によっても異なっていた。合理性を重んじる丹下にとって、その曖昧さが不満だった。1日を二十四等分し1時間とする西洋の時間で生活したいと考え、横浜・関内で時計を購入したのだ。
1853年、米国ボストンのウォルサム社によって大量生産に成功した懐中時計が、大量搬送も容易なことから、農業立国を脱しようとする米国の初めての輸出工業品となった。
1860年に日米修好通商条約批准書の交換のために日本使節団一行がワシントンを訪れた時、ブキャナン大統領から記念に贈られたのがウォルサム社製の懐中時計だった。これが日本人の手にした最初の携帯時計である。
私は、横浜港大さん橋近く、横浜開港資料館を訪ねた。
その学芸員から、「元治元年に出版された『横浜奇談』に、『百二番亜時計屋フォーク』という記載があります。亜はアメリカの意味です。横浜で最初の時計師フォークは、開港時(1859)の在留が確認されています。ご先祖が1860年代に懐中時計を購入されたのなら、フォークの店でウォルサム社製だった可能性が高いと思われます」と説明を受ける。
外国人居留地102番は、やはり資料館で入手した「明治14年内務省地理局測量課作成実測図」によると、関内の東南側境界、堀川に架かる前田橋の近くだった。
前田橋に向かった。橋から朱雀門をくぐり、実測図上でフォークの店が面した本村通りを行く。辺りは中華街の賑わいの真っただ中で、その通りも南門シルクロードと名を変え、時計屋の跡は横浜大世界という娯楽施設になっていた。明治32年(1899)の条約改正で居留地が廃止され、時の経過とともに中国人居住者が増え、中華街が形成されていった。
そこに今、開港当時の外国人居留地の面影は全く無い。
私は、関内の前に広がる海の先に目をやりながら、幕末に同じ海を見ていた高祖父について考えをめぐらしていた。
文久3年(1863)、藩主松平容保に従い京都で勤めていた丹下は、尊王攘夷や討幕を激しく唱える者たちが跋扈する京都の騒擾を目撃し、近世社会の崩れる兆しを感じた。
慶応4年(1868)の正月、鳥羽・伏見の戦いが勃発する直前、丹下は藩主の使いとして二本松藩を訪ね、大政を奉還した徳川家の中興を嘆願した。親藩大名であったとしても、そのようなことは前代未聞だった。
同年2月、大坂から江戸に戻っていた藩主が会津若松に帰還する際、丹下は殿(しんがり)として江戸を最後に離れた。はやる西軍が藩主を襲撃する恐れがあったからで、それまでに故郷と江戸を何度も往復していた丹下だったが、この時の行軍ほど緊張を強いられることはなかった。道中、幕藩体制の終焉と新しい社会の到来を予感する。
翌3月、水戸諸生派を会津から追い出すためと、彼らの勢力を利用して佐渡島の金銀を収得する目的で、丹下は出雲崎への出張を命じられた。京都守護職時の膨大な出費などでひっ迫した会津藩の財政再建のため、金銀が直ぐにでも必要だった。この時の任務は失敗に終わるが、彼は、従来の米本位制に替わって金本位の貨幣経済による社会の到来が遠くないと確信する。
会津若松籠城戦に29歳で命を落とす丹下は、死の直前、近代への暁光を確かに見ていたのだ。
丹下は、時計商からの帰途、先が像の鼻のように湾曲したイギリス波止場を訪れた。それは安政6年の横浜開港時に造営され、この時までに先端部が増設されていた。
波止場に係留された大海を渡る船を眺めながら丹下は、いまだ見ぬ欧米諸国の様子をあれこれと想像していた。「そうだ! この国が平和になったら、自分も海外を見て回るのだ」と、彼は手に入れたばかりの懐中時計を握りしめ、心の中で叫んだ。
しかし、その思いは戦争によって果たされなかった。
イギリス波止場跡(奥に横浜港大さん橋とクルーズ船が見えている)
鈴木丹下は、文久3年(1863)に京都で勃発した「八月十八日の政変」で御所警備の任に就き、その時の緊迫した様子を「騒擾日記」と題する手記に残した。その中で丹下は、初めて一団を成し現れた壬生浪士組について、目撃した事実を有りのままに詳述している。この壬生浪士組は、政変の直後、会津藩主より新選組の名を授かる。
時代の出来事は、言い伝えなどではなく、文書に残されて歴史となる。つまり新選組は、「騒擾日記」に拠って、幕末維新史の舞台へ初めて登場したのだ。
来年、令和5年(2023)は、新選組が誕生して160年という節目の年である。
鈴木晋(丹下)
次号、「横浜・関内(その2)」
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
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