春が突然冬に戻ってしまい寒い日の続いたこの四月半ば、福島県中通りの本宮市を訪ねた。三春を離れ会津若松に向かう輪王寺宮公現法親王の足跡を求めての旅だった。
車窓から見る東北の桜は、とても健気だ。他の木々が枯れた姿を見せている中、満開の花をつけ殊勝に立っている。「早く眠りから目覚めなさい」と、枯れた草木へ春の到来を告げるかのように……。
奥州街道・本宮は、西の安達太良山から連なる山並みと東の阿武隈川に挟まれた南北に細長く広がる宿場町だった。その中央部、阿武隈川へ流れ込む安達太良川を境に、北町と南町に分かれていた。
JR本宮駅より西側、安達太良山へ連なる山並みを望む
輪王寺宮について、「本宮町史第2巻通史編Ⅰ・近世」年表、慶応4年(明治元、1868)6月3日に次の記述を見つけた。
『四つ時(午前10時)頃東叡山宮様南本陣ヘ安着止宿する。四日宮様御出立会津へおもむく』
前号「三春町」で記したように、宮は6月3日朝五つ時(午前8時)に三春を出立しているので、本宮へは2時間ほどで着いたことになる。三春、本宮間は四里(16km)余りもあり、宮一行の驚異的なスピードに信じられない気持だった。
JR本宮駅から5分ほど北へ歩き、市立歴史民俗資料館を訪ねた。そのやや小振りながら存在感のある建造物は、大正13年(1924)に鉄筋コンクリート(RC)で造られ、同市に現存する非木造建物として最古の洋風建築物である。元々電力会社の営業所として建設され、昭和54年(1979)に資料館となった。
我が国で初めてのRC造建築物は、明治44年(1911)に竣工した三井物産横浜支店ビルである。現在も横浜関内・日本大通りに凛として在る。その13年後に完成し、やはり100年近く活用され続けてきたRC造の資料館は、極めて貴重な近代歴史的建造物だ。存在感があって当然のことだった。これからも本宮市の文化遺産として、存在し続けることを願っている。
本題に戻ろう。
その資料館で、「輪王寺宮の宿泊した南本陣は現存していますか? 現存しない場合、その位置を特定できる碑などがありますか? さらに、明治9年・明治天皇東北巡幸の際の本宮での行在所(あんざいしょ)はどこですか?」などと、私は学芸員に質問する。
彼女は大変熱心に話を聞き取り、私が1,2階の展示物を見ている間に、的確な図書や資料を探し出してくれた。
それらの一つ、図説「本宮の歴史」(本宮町史編纂委員会編集)に「本宮宿復元図(幕末期)」があり、南本陣が明示されていた。南本陣は原瀬家が江戸の初めから代々勤め、同書に文政3年(1820)作成の原瀬家屋敷の設計図もあった。その半畳ほどの元図面は展示室で見ることができ、広壮な屋敷だったことが良く分かるのだ。
さらに、明治天皇東北巡幸の際に行在所となった北本陣・鴫原家を知ることもできた。鴫原家は昔のままに在り、提示を受けた住宅地図に載っていた。
南本陣は今跡形もなく、その位置の特定は難しかった。学芸員は、住宅地図を広げながら、あちこちに電話を掛けていた。地元史の研究家などに電話をしてくれているのか……。
そして、輪王寺宮の宿所だった南本陣の現在の場所が明らかになった。そこは、本宮駅東口広場から東にまっすぐ進み、大通りにぶつかって右折し、右側六軒目の「ソレイユモトミヤ」という遊技場の位置だった。駅から歩いて四、五分のところである。その大通りは旧奥州街道で、南本陣は、街道に沿って流れる阿武隈川が屈曲し最も近づく辺りに在った。
しかし、その店の周りで南本陣の跡を示す石碑などを探したが、見つからなかった。資料館で見た原瀬家の屋敷は広大で、その周辺かなりの地を占めていたとして間違いないと考えた。そこで、隣のやや広い敷地に店舗を構える信用金庫を訪ね石碑などの有無を聞くが、全く反応が無かった。
一方、明治天皇巡幸の行在所だった北本陣・鴫原家の近くには、「明治天皇本宮行在所跡」と刻まれた立派な石碑が立っている。やはり、ここ本宮でも〝輪王寺宮隠し〟が行われていたのか……。
翌日、宮一行は原瀬家から少し南へ進み会津街道へ入り、6月6日、会津若松に到着する。
「ソレイユモトミヤ」(南本陣・原瀬家の跡)と旧奥州街道
その日、市立歴史民俗資料館の学芸員は、私に一つの重要な情報を提供してくれた。
人生の後半を本宮で過ごした旧二本松藩士・小田井蔵太(おだいくらた)という人物についてである。
小田井は天保元年(1830)に藩の江戸屋敷で生まれ、槍法と剣術の修業を重ね、幕臣に取り立てられる。慶応4年5月15日の上野戦争では、天野八郎を助けて彰義隊の副隊長を務めた。敗戦後、輪王寺宮をお守りし東北へ逃れ、明治2年に潜伏していた仙台で捕縛される。
彼は、戊辰の東北で、前号で記した小野権之丞と同じ目的で行動を共にしている。一点異なるのは、小野が仙台から箱館へ渡り、箱館戦争の渦中に身を置いたことだ。
小田井蔵太は出獄後、本宮近く中ノ沢温泉の開発に努め、その繁栄の礎を築いた。25年(1892)、波乱万丈の生涯を終える。享年62。本宮市、石雲寺に眠っている。
旧奥州街道近く、屈曲する阿武隈川を望む
とても熱心な学芸員に助けられた旅となった。
鈴木晋(丹下)
2024年春季号 vol.5
今年は3月後半が寒かったせいか、例年より桜の開花が遅くなっておりましたが、全国…
読者コメント