唐津藩出身で新選組に入隊した、大野右仲(おおの うちゅう)さんを紹介させて頂いています。
大野さんは、 慶応4年、戊辰戦争もいよいよ終結に向かうという時期に 仙台にて新選組に入隊します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『慶応四年九月中旬、仙台で唐津藩兵を率いて 新選組に入隊 する。
十九日に同地を発して二十日に松島へと至り、五日ほど滞在して里浜へ転陣。
十月一日ごろに石巻に移動して、フランス式の伝習を受けて調練を繰り広げる。
七日ごろ渡波村に赴き、十日になって小舟を雇い折浜沖の大江丸に乗り込み、十二日に出帆して蝦夷地へと渡航する。
この頃に新選組の頭取に任命され、のち陸軍奉行添役へと累進する。十三日に南部領鍬ケ崎港に達して 兵糧などを調達のために停泊し、十七日になって出港し二十一日に鷲ノ木沖に到達して 翌日二十二日の朝に上陸している。
箱館に向けて進軍を開始し、この日は森村に宿陣、二十三日は峠下に宿陣して軍議を行い 軍を二手に分けた。
二十四日に 新選組は先鋒となって進撃 して、七重村付近で敵兵と衝突、戦闘を開始して奮闘した。
この戦闘において小笠原胖之助を失ったことで唐津兵一同は悲嘆に暮れたといわれる。
二十六日には大野村へ進軍して、晦日に五稜郭へと入城した。 ただちに箱館の警備を命じられ、夕方には同地へ赴いている。
明治二年四月九日には 脱走軍陸軍奉行並の 土方歳三に従い、伝習歩兵隊と衝鉢隊を監督して二股口防衛に出陣している。
その夜、市渡に宿陣して、同役の陸軍奉行添役・大島寅雄と談笑していると、土方がやってきて 「我兵は限りがあり、敵には限りがない。いつか必ず敗れることになるだろう」 と、冷静な情勢分析を露土した。
「しかし、二股口総督に命じられた以上、 敗れるわけにはいかない」ともつけ加えているのである。
大野と大島はこの言葉に気持ちを引き締め、 絶対に負けられない一戦だと決意を新たにする。
翌十日に二股に到着し、まず地形を見きわめ、小人数で大軍を撃破するための要衝と考えられる地点に、胸壁を十六か所構築した。
十三日午前三時、前進陣地三カ所を設けた天狗岩に敵襲を受けたが、この時 土方 は市渡にいて、大島も五稜郭へ使いに赴き不在であったため、台場山の本営にいた 大野が指揮 を執った。
部署を決めて兵を配置し、敵を迎え撃つ準備をするうちに、前進陣地の衝鉢隊一小隊が敗れて退却をはじめ、敵兵が迫ってきた。
土方 も敵軍来襲の知らせを聞いて、間もなく駆けつけている。敵を充分に引きつけたところで、いっせいに攻撃を開始し、この銃撃戦が日没まで続いた。
夜に入って豪雨が降り注いだにもかかわらず戦いは続けられ、弾薬箱が雨に濡れないように軍服を脱いで覆いかぶせ、雷管が湿って発火しないために懐で温めて再度の銃撃を行うという、まさに死闘が繰り広げられた。
大野 も胸壁をまわって兵を励まし続ける。何か手を打たねば危ないと見た 大野 は、土方 と協議した結果、一計を案じ、賞金を懸けて決死隊二十五人を募り、敵側面への攻撃を決行した。
これが功を奏して、明け方になって敵を打ち崩すことができたのである。十七時間にも及んだ二股口の初戦を 勝利に導いた 土方や大野ら軍幹部の適切な指揮は、敵味方と問わずに高く評価された 。
しかし 、新政府軍の攻撃がこれで終わりといったわけではなく、両軍は睨み合いを続け、土方 も伝習歩兵隊二小隊が増援された。また急を聞いて、滝川充太郎が伝習士官隊二小隊を引き連れて新たに駆けつけた。
二十三日午後四時過ぎから 再び銃声が響き渡り、二十五日夜明けまで戦闘が繰り広げられた。大野 は各陣地に戦況を説いてまわり、土方の「退く者は斬る」という言葉も伝えて、士気の高場 を図っている。
このため死力を尽くした戦いとなり、発砲を繰り返しすぎて熱くなった銃身を、水で冷やして撃ち続けたという話も伝わっている。
とにかく、二股口の戦闘は、脱走軍側にとって、あるいは 大野 にとっても 輝かしい結果 を残しはしたが、二十八日になって本道が敗れたことにより、退路を断たれる虞が生じたために、二十九日の日暮れを待って 撤退 したのである。
五月十一日の新政府軍による 箱館総攻撃を迎え撃っての激戦では、宿所の一妓院から台場に向かって兵を励まし、援軍要請のため馬を馳せて五稜郭へ向かう。
千代ケ岡で台場救援に赴く途中の 土方と遭遇 したことで、引き返して 土方に同行 して一本木関門で奮戦するが、しまいに 土方とはぐれた らしく、空しく千代ケ岡に敗走している。
同所から五稜郭に引き揚げ、十三日に台場からの使者としてやって来た、相馬主殿 とともに台場へ向かう。
五月十五日に 弁天台場で降伏後 、津軽藩御預けとなって謹慎し、のち東京送りとなって旧藩に引き渡される。
翌三年一月 になって許され自由の身となる。
明治四年十一月 、豊岡県権参事に出任し、十一年 千葉県准判任御用掛、十二年ごろ 同県一等属。
十七年から 長野、秋田、青森諸県の警部長を歴任し、東松浦郡長を最後に官を辞す。
二十六年 東京に出て悠々自適の生活を送り、 芝区田町の自宅において脳充血のために病没した。 享年七十六歳。 』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長い引用にお付き合いいただきましてありがとうございます。 大野さんの動きとともに、 函館での土方さんの様子も詳しく知ることができた 非常に興味深い内容でした。
これまでに ご紹介してきた唐津藩出身の新選組隊士の他にも、 唐津藩出身の隊士さんはまだいらっしゃいますので 引き続き調べていきたいと思います。
以上で、大野さんのご紹介を終わります。 <引用文献> ・ 新人物往来社 『 新選組大人名事典 上 』
(代筆 minnycat)
【 佐賀県唐津市 『 唐津城 』 】
読者コメント