山の木々も緑に色づき、大地の息吹を感じる季節になった今日この頃。裏磐梯・五色沼、これから観光客で賑わうことだろう。
緑豊かな裏磐梯、森林で覆われたこの地がかつて火山灰や泥流で埋めつくされた不毛の原野だったことは、今の裏磐梯を見る限り想像がしがたい。
磐梯山は何度か噴火でその姿形を変え、明治21年に大噴火して、4つの峰の内の一つ小磐梯が噴火して山体崩壊し、崩れ去った。火山灰や泥流で埋めつくされ不毛の原野と化した裏磐梯が、緑豊かな森林で覆われた原野に復活するに至ったのは、遠藤現夢(本名は遠藤十次郎)という有能な人物の植林によるものだった。
遠藤現夢
遠藤現夢は、文久3年(1863)若松新横町の商家、滝口太右衛門の十二男として生まれ育った。やがて大町の米穀商、大和屋遠藤家の婿養子となり、その後、 旧日新館跡に分家し、味噌や醤油の醸造業を開業し、さらに明治34年には若松・田島間の新道開発に伴って運送業も始めたのである。
遠藤現夢の住まいは会津鶴ヶ城の近くにあった。戊辰戦争で荒れ果てた鶴ヶ城を、なんとか元のような綺麗な城跡にしようと思っていた。
自らが先頭に立ち、使用人や家族を動員して、鶴ケ城跡地の草刈りに取り組んだが、城跡は広大で、なかなか思うように進まない。そして近隣の農家に頼んだり、運送業で知り合った人達に人夫を依頼、遠方からも草刈りの応援が駆けつけてくれた。
その後はお堀の清掃作業に当たった。草木やヨシが茂ったのを刈り払い、泥上げをしたり、ごみを取り除いたりする作業に息子や奉公人と取り組んだ。そして、お堀に水が流れ込むように水の入りロと出口を整備した。こうして堀が整えられたのである。
次に現夢は、鯉の養殖事業を手掛けた。お堀の水がきれいになると、栄養のある鯉を市民に安く提供するために養殖を始めた。市民に喜ばれ、東山温泉では鯉のうま煮を名物として広め評判となった。鯉は高値で買い取られ、数年後には一万貫を生産するようになった。鯉の販売益は、城跡を整備・開発するための資金とした。
さらに、旧藩主・松平家の収入源となる植林事業に取り組んだ。松平家は広大な土地を所有していたが、収入がなかった。現夢は松平家の将来の収入源となるよう、まずは城跡に桐の木を植樹した。桐たんす、桐下駄、箱類などの会津の伝統産業に目を付けた。さらに、杉の植林も行った。会津藩祖・保科正之を祭る猪苗代・見祢山の土津神社の山に杉苗を植えた。
土津神社
また、松平家の墓所である東山の御廟の山にも杉苗を根付かせた。杉はさまざまな用材として需要の多い木である。
このほか、お堀の下流の桑畑を水田に造り替え、収穫した米を松平家に献上した。城跡の整備と植林事業の成功もあり、松平家は現夢に対し、謝意を込めて歴代藩主が使用した「手水鉢」一対を贈った。
明治41年に陸軍歩兵第六五連隊が会津若松に移駐されたのを記念し、現夢は何人かの協力者と共に、連隊の正門付近(現在の若松二中)と鶴ケ城跡の内外にソメイヨシノの苗木一千本を植えた。さらには会津若松の南側を桜で囲う計画を立て、自費を投じて苗木三千本を購入。まず、川原町、南町、天寧寺町、東山から飯盛山に至る道路の西側、及び湯川の堤防上に植えるのに、各町内青年会の援助を受けた。
濠を埋め尽くす桜
ところが、半分ほど植えたところで、「河川法に反する」として、県の差し止め命令を受けてしまった。
大正9年、現夢によって見事に整備された鶴ケ城跡を「若松の公園として、松平家から払い下げを受けよう」という市議会の願いが松平家に持ち掛けられた。これに対し、松平家は「城跡の管理はすべて逮藤現夢に任せているから、現夢の意見を聞いてから返答する」と答えた。現夢は「桐の木の代金をいただきたい」と応分の負担を求めたが、市は「財政難で支払えない」と言われ、現夢は「公共のためなら仕方がない」ということで、無償で市に引き渡した。昭和9年、「鶴ケ城公園」と命名された。
次回、後編へと続く
2024年春季号 vol.5
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