ゴールデンウイーク真っ只中、家族がひたち海浜公園のネモフィラが見たいということで車を走らせた。青い空に青い海、そして広大な丘陵一面に咲く青いネモフィラ、まさに自然一色に包まれた光景に気持ちが躍る。そして私は、このひたち海浜公園から車で10分くらいのところにある那珂湊反射炉が見たかったので、ひと足先に公園を出た。
関東地方第3の大河である那珂川。関東随一の清流として知られ、日光国立公園の指定地域内である上流部を中心に、流域には自然が多く残され、中流域は那珂川県立自然公園に指定され保護されている。流域は魚類が豊富で、江戸時代にはサケが遡上する河川として知られ、那珂川で捕れたサケは水戸藩への献上品とされていた。河口にある那珂湊漁港の魚市場は朝から買い物客で賑わっている。
那珂湊反射炉
そんな那珂湊にあるのが那珂湊反射炉である。反射炉とは、銑鉄(せんてつ・砂鉄や鉄鉱石から作った粗製の鉄で、不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉。銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要となり、反射炉内部の溶解室の天井部分が浅いドーム形になっていて、そこに炎や熱を「反射」させ、銑鉄に集中させることで高温を実現する構造となっている。このように、反射させる仕組みから反射炉と呼ばれている。
反射炉前にある大砲
幕末に鉄製の大砲鋳造を目的に水戸藩によって造られた。吾妻台と呼ばれる那珂川を見下ろす丘陵地に建設され、現在のあづまが丘公園内に位置する。水戸藩9代藩主、斉昭公の命により、異国船が往来するようになった海岸の防備のため、鉄製の大砲を製造するのに必要だった反射炉が、安政4年(1857年)までに2棟建設された。
元治元年(1864年)、元治甲子の乱により、反射炉は破壊されたが、昭和12年(1937年)、地元の有志により、当時の煉瓦を用いた実物に近い復元模型が完成し、往時の姿を偲ばせ今に至っている。そして平成16年(2004年)に県の史跡に指定された。
東京方面から国道245号線を北上し、那珂川にかかる湊大橋を渡ると歩道橋のある交差点に差し掛かる。その交差点を右折し、右折したすぐのところを斜め右に入る路地がある。その路地をまっすぐ進み、約400m位進むとこの反射炉がある。途中、反射炉の煙突の頭が見えるはずだ。
山上門のある入口
入口には10台くらいの車は止められるだろう駐車場があり、そして、ひたちなか市指定建造物「山上門」がある。
この門は、水戸藩江戸小石川邸(現在の東京都文京区 小石川町)正門右側の門で、江戸時代後期に勅使奉迎のために特に設けられた門である。小石川邸の建物はこの門のほかは全て失われており、今日残存する邸唯一の建築物である。名前の由来は、後に小石川邸内の山上に移築されたことによるという。
幕末動乱期には佐久間象山(兵学者)、横井小楠(政治家)、西郷隆盛(政治家)、江川英龍(兵学者)、橋本左内(思想家)ら幕末・維新史上重要な役割を担った 諸藩の志士たちもこの門を<ぐり、小石川邸に出入りしたといわれる。
形態的には薬医門である。薬医門は本柱と控柱を結ぶ梁の中間に束をおき切妻屋根をのせた門で、江戸時代後期の典型的な屋敷門である。
昭和11年に那珂湊出身の深作貞治氏が、当時の陸軍省から払い下げを受け、那珂湊の当地に移築し保存したもので、昭和32年に那珂湊市へ寄贈されている。
(ひたちなか市教育委員会より)
水戸藩の反射炉は、鉄製の大砲鋳造を目的として、安政年間に2基建造された。反射炉とは、大型の金属溶解炉のこと。当時、全国に公営・民営あわせ十数箇所建造されたといわれている。しかし、元治元年(1864)の藩内抗争(元治甲子の乱又は天狗党の乱という)の際、破壊されてしまった。やがて昭和8年(1933)頃から復元の動きが起こり、昭和12年(1937)12月、吾妻台の跡地にほぼ原形どおりに復元されたのである。
水戸藩は、徳川斉昭(1800~60)が嘉永年間に至って藩政への関与を許されるようになると、兵器の充実、とりわけ従来の銅製に変えて鉄製大砲鋳造の必要性を痛感するようになり、南部藩士の大島高任(総左衛門)らを反射炉建設の技術者として採用した。建設地としては吾妻台が選ばれたのだ。地盤の強固なこと、水戸城下3里の近郊で経済的にも廻船業で賑わう藩内随一の繁栄地であること、原料の鉄と燃料の石炭の調達運搬に便利であること、錐入れ水車場の建造にも便宜を有することなどの条件を満たす場所と判断されたためである。
安政元年(1854)8月、起工式が行われた。大工棟梁となった飛田与七(宮大工)の指揮のもと、入念な基礎工事を施すとともに、耐火煉瓦の原料となる粘土を得るため、那須郡小砂村(栃木県那珂郡那珂川町)の土がもっとも適していることを見究め、これに磐城産の燧石(ひうちいし)の粉末を一定の割合で混ぜ合わせることで烈火に耐える煉瓦の焼成に成功した。大島らは、当初10基の炉の建造を計画したといわたが、当面は2基の完成を目指すこととし、翌安政2年(1855)1月から建造に着手し、11月に1号炉(西炉)が完成したのである。同3年(1856)鋳込みをしてモルチール砲(臼砲)を1号砲から4号砲まで造っている。完成した大砲は約束により幕府へ送られた。もっとも、1基では一度に溶解できる鉄の量はおよそ400貫であるから、2炉以上なければ大型の大砲鋳造はできない。そこで、2号炉(東炉)の建造に着手し、1号炉と同型ながら火廻りに改良を加え、同4年(1857)12月に完成させた。
しかし、先のモルチール砲は、良質の鉄が得られず強度に問題を残した。 そこで、大島は、故郷南部の釜石(岩手県釜石市)に出張し、かの地に洋式高炉を建設、良質の「柔鉄」(鉄鉱石から精錬した銑鉄)供給に見通しをつけて同5年(1858)年1月、那珂湊へ帰り、鋳造の本格的操業を開始したのだ。すなわち2月からは2基の反射炉でモルチール砲3門、カノン砲1門を鋳造、さらに4月からは釜石の「柔鉄」2700貫が那珂湊に到着し、これにより3寸径カノン砲3門が鋳造出来たのである。
こうして鋳造作業は、約4年を費やしてようやく明るい展望が開けたが、前藩主斉昭が再度謹慎の命を受けたとの報が届き、以後操業は事実上中止のやむなきに至った。これが再開できたのは、万延元年(1860)12月頃とみられ、元治元年(1864)2月までカノン砲数門の鋳込みが行われたものの、同年3月に起こった元治甲子の乱の影響は那珂湊にも及び、10月にはここで激戦が展開された。このため反射炉も水車場もその戦火のなかで焼失崩壊したのである。
那珂湊反射炉の完成は、前述のように安政2年(1855)、年代的には佐賀藩、薩摩藩、幕府の伊豆韮山に次いで全国第4位ということになる。しかし、大島によるわが国初の洋式高炉の建設は、水戸藩の鋳造事業に直結すること、苦心のすえ高度な耐火煉瓦の開発に成功したことは、わが国近代製鉄史上およびセラミックス工業史上に重要な意義をもつものである。また、反射炉が建造された場所に、残されていた当時の煉瓦の一部を取り入れながら復元模型を建て、その敷地を保存してきた先人の功績も忘れてはならない。これらの点において、那珂湊反射炉は、茨城県の史跡の一つとして、その存在意義を十分に主張しうるものなのである。
煉瓦焼成窯(復元模型)
反射炉建設には、高熱に耐える煉瓦の製造が必要で、この窯は、ここの反射炉に使用した耐火煉瓦を焼成するために築かれた登り窯の復元模型。耐火煉瓦を製造するには幾多の困難があったが、当時は水戸藩領であった栃木県那珂川町小砂の陶土や、水戸市笠原町の粘土等の原料を用し名人といわれた瓦職人「福井仙吉」の製陶技術と、建設関係者の苦心の末に製造することができた。
製造された煉瓦は約4万枚といわれており、約1,200~1,600度の高熱にも耐えられ、現代の耐火煉瓦に近いものである。なお、窯の位置については、当時の場所絵図などによると敷地の北西側とも考えられ、窯の構造についても色々な考え方がある。
2024年春季号 vol.5
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