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ザ・戊辰研マガジン

2022年12月号 vol.62

會津の御馳走~渋川問屋

2022年12月07日 00:01 by tetsuo-kanome
2022年12月07日 00:01 by tetsuo-kanome

【渋川問屋】

 城下町の西の玄関口として問屋やはたご、料理屋が軒を連ねた会津若松市の七日町通り。その象徴が会津の郷土料理を提供する『渋川問屋』。豪壮な木造の建物群が明治・大正時代の面影を今に伝えます。創業は明治の初め。問屋の名が示す通り、海に面していない山国・会津で唯一の海産問屋だった。身欠きにしんや棒たらを扱い、身欠きにしんの東日本の相場は渋川問屋が決めたとも伝わる。最盛期には渋川家6家族、従業員50人余がここで生活し、繁栄を極めた。店ののれんをくぐる。日本酒やビールの名前が書かれた大きな木製看板が目に飛び込み、重ねた歴史を実感する。今では少ない格子状の「しとみ戸」がある帳場、大きな囲炉裏(いろり)、別館に向かう中庭など大店の雰囲気をとどめる場所は多い。「自家用貨物自動車や自家用オートバイをいち早く導入した際の写真も残る。かなり栄えたんでしょう」。会長の渋川恵男(ともお)さん(74)が語る。1975(昭和50)年に会津若松市公設地方卸売市場が開設され、渋川問屋は海産物市場としての役割を終えた。解体しボウリング場やビジネスホテルにする提案もあったが、「会津らしい建物を残したい」という渋川さんらの思いは強く、問屋の歴史は今に受け継がれた。バイパス開通などで一時は「シャッター通り」となった七日町通りだが、渋川さんらの発案で「観光客を呼び込もう」という挑戦が始まった。景観条例制定、七日町通りまちなみ協議会設立などを経て、レトロな建物の保存や修景が進められた。通りが一丸となった取り組みが実を結び、現在は年間約30万人が訪れる観光地に育った。木造の建物は東日本大震災の揺れにも耐えた。「蔵が大きく揺れ、もうこれで終わりだと思ったが、先人の知恵が詰まった建物は残った。残し続ける使命を強く感じた」。渋川さんは覚悟を口にする。渋川問屋のもう一つの物語。それは現在も残されている「憂国の間」にまつわる。名付けたのは作家・政治活動家の三島由紀夫だ。少年時代をここで過ごしたのは、渋川家の長男に生まれた渋川善助。日本の将来を憂えた皇道派の陸軍青年将校らが昭和維新断行を掲げ決起した1936(昭和11)年のクーデター未遂事件「二・二六事件」。善助はこれに関わり、民間人で唯一、死刑となった。善助は選ばれて御前講演をするほど優秀だったが、陸軍士官学校本科の卒業目前に教官と衝突、退校した。明治大で国家主義運動に関わり、その真っすぐな気持ちが二・二六事件へと向かわせた。渋川さんは善助のおい。「おじが帰ってくると家の中がピリピリしていた」。渋川さんは父や母から伝え聞いた逸話を語り「日本の格差社会を憂えていたようだ。食卓にごちそうが並べば『もっと粗末なものを食べるべきだ』と主張し周囲を困惑させた。清廉潔白というか質実剛健というか」と、善助の性格と二・二六事件との関係性を推し量る。死刑にはなったが善助を尊敬し憂国の間に手を合わせる人も多かった。三島のほか、松本清張ら多くの作家もこの地を訪れている。憂国の間に入ると、いとこのために書いたという十句観音経が目に飛び込む。最後に「直指道光居士」の文字。善助が生前に自ら付けた戒名だという。荒々しく力強い筆跡が、真っすぐな精神を象徴するかのようだ。善助はこの部屋で何を憂えていたのか。かつて眺めたであろう戸外の風景に答えは見いだせないが、建物とともに善助の思いは残っていると感じた。

 私は、明治大正浪漫の雰囲気が残る『渋川問屋』に、以前から一度訪れたいと思っておりました。9/30の夕食で初めて訪問しました。

【會津の御馳走の御品書】

【左から「會津名物のにしん山椒」「松前漬け」「にしんの昆布巻き」】

【會津三大珍味の「棒鱈の煮付け」】

【「こづゆ」】

【紅鮭寿司】

【“幻の会津牛”】

【舞茸の炊き込みご飯】

【にしんの天ぷら】

【そば粒がゆ】

 私がこれまで食べた會津の料理の中で、ダントツに美味しい品々でした。特に「こづゆ」の美味しさは群を抜いておりました。農林水産省選定「農山漁村の郷土料理百選」で選ばれた福島県の郷土料理。 ホタテの貝柱でだしを取り、豆麩(まめふ)、にんじん、しいたけ、里芋、キクラゲ、糸こんにゃくなどを加え、薄味に味を調えたお吸い物を、会津塗りの椀で食す料理。多くの食材が盛られる贅沢な料理ながら「おかわりを何杯しても良い」習慣が有り、会津人のもてなしの心が表現されています。会津藩のご馳走料理としてうまれた『こづゆ』は、現在も会津では正月や冠婚葬祭などの特別な日には欠かせないもてなしの料理。具だくさんの材料の数は縁起のよい奇数が習わしのようです。また、“幻の会津牛”の塩川牛は、一口食べると一瞬にして消えるほど絶品でした。極上の献上牛と呼ばれているのも大きく頷けました。會津三大珍味の「棒鱈煮付け」は、上品な味でとても美味しかったです。會津名物の「にしん山椒」も、とてもオツな味でした。

 皆様も、会津若松を訪問された際には、『渋川問屋』で會津の御馳走をぜひご堪能してくなんしょない。

【記者 鹿目 哲生】

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