文久二年には松平容保藩主が「京都守護職」を命じられた年である。会津藩は蝦夷地の警備とともに、さらに「重荷」を背負わされ、藩にとってもその財政は容易なものではなかったのである。
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会津藩士・南摩綱紀(つなのり)は文久二年から慶応三年(1867年)までの六年間、「シベツ代官」として勤めた。最初の代官は「一瀬紀一郎」であったという。慶応二年、「籾山省介」が「紋別代官」に「河瀬重次郎」は「御開御普請奉行」として蝦夷地常詰となり、紋別、函館留芽として「常駐」した。この他に「群奉行」に樋口佐多助、「勘定方」に高津藤蔵、「戸切地陣屋」奉行に蛯名群治らがいる。皆「会津戊辰戦争」に出てくる主要人物である。「籾梯次郎」も一年間「斜里の代官」に赴任している。
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会津藩士は蝦夷地の警備に当たったのは九年間であった。慶応四年の「戊辰戦争」の勃発によって蝦夷地から撤退となっていく。この間、会津藩は警備もさることながら「新領地」の経営に力を尽くしたのである。当時、蝦夷地は「米」が殆んど獲れず、漁業だけが唯一の産業であった。
現在、会津に残る「ニシン」や「ボウタラ」の料理がここから発源されたのである。
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この九年間の防備と開拓に多くの藩士が病没している。「標津」「紋別」にはその墓が今もあるという。 東蝦夷地警備 会津藩は二十万石。文化七年(1810年)から一時は免除されたが、長きに亘っての「海防警備」に莫大な費用を費やしている。幕府から石高の増額、援助金は支給されているが、とてもそれだけでは賄えるものではなかった。
「房総沿岸警備」期間中、弘化四年の一年間だけでも「金八万一千五百三十一両」「米二万八千二百五十七俵余」を使途しているのである。領民にも不安が起きている。家臣からの借り入れに頼ったりもしていた。再三、幕府へ援助を申し入れるが、必ずしも実行されてはいなかった。 目次 開国への道 蓮月尼の記事 独の使節団幕末を活写 開国への道 そんな情況の中、「京都守護職」の就任要請が起きてくるのである。文久二年であった。この「守護職」がでてくるまでの情勢を少しだけ追って置きたい。
東蝦夷地警備 ペリー艦隊が再来航した嘉永七年(1854年、のち安政元年となる)一月十六日(2月13日)、幕府はその応接に時を稼ぎ、二十八日「溜間詰(政勝を老中と討議し、直接将軍に意見を上申できる大名)」および同格の諸大名の登城を命じた。主な大名は彦根藩主井伊直弼、水戸藩主徳川斉昭、佐倉藩主堀田正睦(まさよし)会津藩主松平容保ら(溜間詰大名)がいる。
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この「評議」は大きく分けて二つの意見に集約された。
(1)幕政参与職の徳川斉昭の意見 断然ペリー打払いに決し、士長を振起し人心をひとつにし、挙国一致の体制をもって対決する
(2)堀田正睦(のちに老中となる)、井伊直弼(のちに大老)の意見 イ)鎖国を維持することは国際情勢から難しい ロ)「海防」が充実していない以上「攘夷」は無理 ハ)交易は必要であり、積極的に海外への進出もめざすべき 二)そのため「大型船」の建造を許可し、軍艦も必要 ホ)「国是」は時勢に応じて定めなくてはならない との意見に集約されたが「溜間詰」の大名の殆んどが(2)の論に同調した。
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この結果、横浜で三月三日、「日米和親条約」が締結されたのである。この間、筆頭老中阿部正弘は、前年のペリー来航時は「鎖国」の立場であり、斉昭とよく協議したりしていたのだが、しかし、次第にその難しさを知り、近代化された諸外国の軍艦、兵器に日本は太刀打ちできない事をさとったのである。
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「条約」は(1)正式に国交を開き(2)航行に必要な食糧・薪炭を補給を許可する―内容であった。前年、多くの藩主・幕臣らに意見を求めるなど、活気的な事をした阿部だったが、朝廷にも「奉申」し、「嘉納」されたのである。
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幕府は阿部正弘が没すると、佐倉藩主堀田正睦を「筆頭老中」に就任させた。 東蝦夷地警備 ペリー来航時、徳川将軍は十二歳家慶だったが、直後に没し、十三代将軍に徳川家定が三十歳で継いだが、生来病弱で子供もなく、政務執行もままならない状態であった。そのため「世子」継ぎめぐる動きが起きていた。嘉永七年五月に「安政」と改大され(十月二十七日)ほどなく「安政二年」となった。この年、「安政の大地震」が起こり、大きな被害が出、また有力な諸藩の重臣(水戸藩藤田東湖など)も圧死したりしている。
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そんな中、佐倉藩主堀田正睦が再び老中となり、アメリカに次いでイギリス・フランス・ドイツ等々の欧米列強国と「和親条約」を締結するが「領事館」の設置などの問題も起こり始めてくるのである。
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さらに安政四年(1857年)になると「将軍跡継問題」が表面化し、また諸外国が通商(貿易)条約の締結を求めてきたのである。 イ)ドイツ商船「下田」に入港 ロ)イギリス艦隊「函館」入港 ハ)フランス艦隊「下田」へ来航 二)アメリカ総領事ハリスが「下田」に到着 ホ)長崎に海軍伝習所設置 等々の問題が次々と幕府に振りかかってきたのである。 -◇- 堀田正睦老中はこれらの情況から「日米通商条約」締結の意思を固め、上洛し「朝廷」に「勅許」を願い出、約一ヵ月に及ぶ接渉をするが、天皇はついに「調印拒否」を下したのである。その責任をとって堀田正睦は老中を辞任するのである。
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