七月十九日の明け六ツ(午前六時)両軍は伏見と御所の蛤御門、堺町御門の三か所で 激突しました。伏見の戦闘は、長州の福原越後隊が、大垣、彦根の諸藩に敗れ大坂へ 逃げたが、御所の二門では、両軍死力を尽くしての激戦となりました。 最大の激戦は、蛤御門の攻防で、ここには天龍寺から来た長州の国司、来島隊と、守備の会津藩が一進一退の死闘を展開、会津側が押されて崩れかけた。
これを見た守衛総督の一橋慶喜が手兵を投入、桑名、薩摩の両藩兵も加勢に来て形勢は逆転、長州側は隊長の来島が狙撃に斃れ、兵も精強の薩摩兵に痛めつけられ潰走しました。 また、久坂玄瑞や真木和泉の隊は午前六時頃堺町御門に達し、すぐ隣の鷹司邸に入り 込みました。主の鷹司輔煕(すけひろ)は、八・一八政変で追われた前関白です。
長州藩と気脈を通じていたので久坂、真木らはここに立てこもったのです。 やがて、蛤御門で敗れた来島隊の一部も合流、長州側は勢いを盛り返しましたが、守衛総督の慶喜は会津、越前、薩摩の諸藩に邸の焼討ちを決断、会津藩の大砲を繰り出して砲撃。塀はたちまち破壊され、邸も炎上したので、長州側はたまらず敗走、久坂玄瑞は自刃、真木和泉も二百の残兵とともに、いったんは山崎に退いたが、二十一日夜、同志十六名とともに自刃しています。
こうして、戦闘は九ツ(正午)前に終わったものの、鷹司邸を焼いた火の手は民家に移りさらに守護職の兵が市中に潜む残敵掃討のため建物に火をつけたりしたので、市内は二十一日の夜まで、三日三晩にわたって燃え続け、洛中八百十一町を焼き尽くしたといいます。 焼失家屋は三万軒、寺社も東本願寺など、二百五十三ケ寺が焼けたといわれ、十津川 郷士の最初の屯所となった寺町通三条下ルの「円福寺」もこのとき焼失しています。 六時間足らずの戦闘にしては、大変な犠牲ですが、この戦いの何よりの特異性は、御所が戦場となり、内裏にまで大砲が撃ち込まれたことでした。 これは日本史上でも、おそらく空前絶後の出来事だろうと言われています。
では、この御所の大危機に際して、禁裏御守衛を自認する十津川郷士は、いったい どうしていたのでしょう。 次回に続きます。
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